第一次世界大戦
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

7月29日、ロシアはセルビアを支持してオーストリア=ハンガリーに対する一部動員を行ったが[25]、翌30日には総動員に切り替えた。ヴィルヘルム2世はいとこにあたるロシア皇帝ニコライ2世にロシアの総動員を取りやめるよう求め、ドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークは31日まで回答を待った。ロシアがヴィルヘルム2世の要請を断ると、ドイツはロシアに最後通牒を発し、動員を停止することと、セルビアを支援しない確約を要求した。またフランスにも最後通牒を発して、セルビアの守備に関連する場合、ロシアを支持しないよう要求した。8月1日、ロシアが回答した後、ドイツは動員してロシアに宣戦布告した。これにより、オーストリア=ハンガリーでも8月4日に総動員が行われた。シュリーフェン・プランによるドイツ軍の進行路

ドイツがフランスに中立に留まるよう要求したのは、兵力展開の計画を選ばなければならなかったためであった。当時、ドイツでは戦争計画がいくつか立てられており、どれを選んだとしても兵力の展開中に計画を変更することは困難だった。1905年に立案され、後に修正されたドイツのシュリーフェン・プランでは軍の8割を西に配置するアウフマーシュ・II・ヴェスト (Aufmarsch II West) と軍の6割を西に、4割を東に配置するアウフマーシュ・I・オスト (Aufmarsch I Ost) とアウフマーシュ・II・オスト (Aufmarsch II Ost) があった。東に配置する軍が最大でも4割留まりだったのは、東プロイセンの鉄道の輸送率の上限であったからだった。フランスは回答しなかったが、自軍を国境から10km後退させて偶発的衝突を防ぎつつ予備軍を動員するという、立場が不明瞭な行動をした。ドイツはその対処として予備軍を動員、アウフマーシュ・II・ヴェストを実施すると決定した。

8月1日、ヴィルヘルム2世はフランスが攻撃されない限りイギリスが中立に留まるという誤報を受けて、小モルトケに「全軍を東に進めよ」と命じた。小モルトケは兵士100万人の再配置は不可能であり、しかもフランスにドイツを「背後から」攻撃する機会を与えるのは災難的な結果を引き起こす可能性があるとヴィルヘルム2世を説得した。しかしヴィルヘルム2世はドイツ軍がルクセンブルクに進軍しないことを堅持、いとこのイギリス国王ジョージ5世からの電報で先の情報が誤報であることを判明してようやく小モルトケに「今やあなたは何をしてもいい」と述べた[51][52]。ドイツは8月2日にルクセンブルクを攻撃、3日にフランスに宣戦布告した。4日、ベルギーがドイツ軍に対し、フランスへ進軍するためにベルギーを通過することを拒否すると、ドイツはベルギーにも宣戦布告した[53][54][55]。イギリスはドイツに最後通牒を発し、ベルギーは必ず中立に留まらなければならないと要求したが、「不十分な回答」を得た後、8月4日の午後7時にドイツに宣戦布告した(午後11時に発効)[56]
1914年の戦闘
中央同盟国の緒戦での混乱1914年8月4日時点の両陣営 .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  連合国   連合国の植民地・占領地域   同盟国   同盟国の植民地・占領地域

中央同盟国では、緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリア=ハンガリーのセルビア侵攻を支援すると確約していた。今まで使われた兵力展開の計画は1914年初に変更されたが、新しい計画は実戦で使われたことがなかった。

オーストリア=ハンガリーはドイツが北側でロシア軍の対処にあたると考えたが[57]、ドイツはオーストリア=ハンガリーが軍の大半を対ロシア戦に動員し、ドイツ軍はフランス軍の対処にあたると考えた。この混乱によりオーストリア=ハンガリー陸軍(英語版)は対ロシアと対セルビアの両前線で軍を分割せざるを得なかった。
1914年のセルビア戦役セルビア軍のブレリオ XI機、1915年。詳細は「セルビア戦役(英語版)」を参照

オーストリアは8月12日からセルビアに侵攻。ツェルの戦い(英語版)、続いてコルバラの戦い(英語版)でセルビア軍と戦った。侵攻開始からの2週間で、オーストリア軍の攻勢は大損害を受け撃退された。これは第一次世界大戦における連合国軍の最初の重要な勝利となり、オーストリア=ハンガリーの迅速な勝利への希望を打ち砕いた。

その結果、オーストリアはセルビア戦線に大軍を維持しなければならず、対ロシア戦役に投入できるオーストリア軍が弱体化することとなった[58]。セルビアがオーストリア=ハンガリーの侵攻を撃退したことは20世紀の戦闘における番狂わせの一つといわれた[59]セルビアから脱出した難民、1914年のライプニッツにて。

セルビアにおけるオーストリア=ハンガリーの第一次攻勢はセルビアの一般市民に対する攻撃とともに行われた。民衆数千人が殺害され、集落は略奪、放火された。オーストリア=ハンガリー軍部は一般市民に対する攻撃を暗に認め、「系統的でない徴発」や「無意味な報復」などと形容した。セルビア軍は善戦したが、12月までにその力を使い切ったうえセルビアで疫病が流行し、苦しめられることになった[60]

12月5日から17日、オーストリア=ハンガリー軍はロシア軍のクラクフへの進軍を阻止し、その後は長大な前線にわたって塹壕戦に突入した。また1914年12月から1915年4月にかけてカルパティア山脈の冬季戦役が行われ、中央同盟国軍がロシア軍に対し善戦した[61]
西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行詳細は「西部戦線 (第一次世界大戦)」を参照動員以降の初給料支払い、1914年、ベルリンにて。

ドイツ陸軍の西部国境への集結がまだ続いている最中の1914年8月5日、ドイツ第10軍団(英語版)はベルギーのリエージュ要塞への攻撃を開始した(リエージュの戦い)。リエージュの町は7日に陥落したが、その周りを囲むように建造されたリエージュの12要塞(英語版)はすぐには陥落しなかった。

ドイツはディッケ・ベルタという攻城砲を投入して要塞を落とし、16日にリエージュを完全に征服した。戦闘で特筆に値する事柄は、15日に砲弾がロンサン砦(英語版)の弾薬庫に直撃して砦ごと破壊したことがある。難攻不落とされたリエージュ要塞群があっさりと陥落したため、フランスの戦闘計画は方針転換を余儀なくされた[62]ヴィルヘルム2世による「ドイツ人民へ!」 (An das deutsche Volk!) の宣言、1914年8月6日。

第一次世界大戦において、一般市民への攻撃が初めて行われたのは8月2日、リエージュ近くのヴィゼ、ダレム(英語版)、バティス(フランス語版)で起きたことだった[63]。その後の数週間、ドイツ軍はベルギーとフランスの一般市民にしばしば暴力をふるったが、その理由はフラン=ティルール(英語版)によるドイツ軍へのゲリラ攻撃だった。ドイツ軍が初めてベルギーの民衆を大量処刑したのは8月5日のことで、最も重い戦争犯罪についてはディナン(英語版)、タミーヌ(フランス語版)、アンデンヌ(英語版)、アールスホットで起きた[64]。このような報復攻撃により、1914年8月から10月までの間に民間人6,500人が犠牲者になり[65]、またレーヴェンの破壊(ドイツ語版)でドイツは国際世論の非難を受けた[66]。これらの戦争犯罪はイギリスのプロパガンダで真偽まじりで宣伝され、「ベルギーの強奪(英語版)」という語が生まれた。前進するドイツ軍、1914年8月7日

ドイツ軍がシュリーフェン・プランを実施するために迂回している中、フランス側ではプラン17(英語版)を準備していた。プラン17ではドイツの計画と違い、ロレーヌでの中央突破を戦略としていた。実際の大規模攻撃の前、ミュルーズへの攻撃も予定していた。フランス軍の指揮官ジョゼフ・ジョフルはドイツ軍を南部で釘付けにすることと、フランス国民の戦意高揚を目的として、普仏戦争でドイツ領となっていたアルザス=ロレーヌの奪還を掲げた。フランス軍は住民の一部に歓迎される中、8月7日にアルザスの工業地帯で2番目の大都市であるミュルーズを占領して、一時的に戦意高揚に成功したが、9日にはドイツ軍に奪還された。その後、ドイツ軍は8月24日までにドラー川(英語版)沿岸とヴォージュ山脈の一部を除いて奪還、以降、終戦まで維持した。フランス軍の攻撃を指揮したルイ・ボノー(フランス語版)はジョフルに解任された[67]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:644 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef