ドイツ陸軍のパリ進軍が1914年9月のマルヌ会戦で食い止められると、この西部戦線は消耗戦の様相を呈し、1917年まで塹壕線がほとんど動かない状況となった。東部戦線ではロシアがオーストリア=ハンガリーに勝利したが、ドイツはタンネンベルクの戦いと第一次マズーリ湖攻勢でロシアによる東プロイセン侵攻(英語版)を食い止めた。1914年11月にオスマン帝国が中央同盟国に加入すると、カフカースと中東(メソポタミアやシナイ半島)の戦線が開かれた。1915年にはイタリアが連合国に、ブルガリアが中央同盟国に加入した。ルーマニア王国とアメリカはそれぞれ1916年と1917年に連合国に加入した。
ロシアでは1917年3月に2月革命によって帝政が崩壊し、代わって成立したロシア臨時政府も十月革命で打倒され、軍事上でも敗北が続くと、ロシアは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結して大戦から離脱した。1918年春にはドイツが西部戦線で春季攻勢を仕掛けたが、連合国軍は百日攻勢(英語版)でドイツ軍を押し返した。1918年11月4日、オーストリア=ハンガリーはヴィラ・ジュスティ休戦協定を締結。ドイツも革命が起こったため休戦協定を締結し、戦争は連合国の勝利となった。
戦争終結前後にはドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などのいくつかの帝国が消滅した。国境線が引き直され、独立国として9つの国家が建国されるかあるいは復活した[28]。また、ドイツ植民地帝国は戦勝国の間で分割された。
1919年のパリ講和会議においては「五大国」(イギリス、フランス、イタリア、日本、アメリカ)が会議を主導し、一連の講和条約を敗戦国に押し付け、敗戦国の領土を分割した。大戦後には、再び世界大戦が起こらないことを願って国際連盟が設立された。
軍事的には列強が人員や経済力、工業技術を大規模に動員する国家総力戦であった。航空機や化学兵器(毒ガス)、潜水艦、戦車といった新兵器が大規模または史上初めて使われた[29](軍事技術も参照)。 19世紀の間、ヨーロッパ列強は勢力均衡を維持しようとして様々な手を使い、1900年までに複雑な政治と軍事同盟網を築き上げた[30]。その端緒となったのは1815年にプロイセン王国、ロシア帝国、オーストリア帝国の間で締結された神聖同盟であった。1871年にプロイセン王国がドイツ統一を成し遂げると、プロイセン王国はドイツ帝国の一部となった。直後の1873年10月、ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクはオーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国の間での三帝同盟を交渉したが、オーストリア=ハンガリーとロシアがバルカン半島政策をめぐって対立したため、ドイツは1879年にオーストリア=ハンガリーと単独で独墺同盟を締結した。これはオスマン帝国が衰退
背景詳細は「第一次世界大戦の原因」を参照1914年時点で2つの陣営に分けられたヨーロッパ。緑は三国協商で茶色は三国同盟である。
政治と軍事同盟