第一次世界大戦
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戦争は全世界の経済大国を巻き込み[8]、それらを連合国ロシア帝国フランス第三共和政グレートブリテンおよびアイルランド連合王国三国協商に基づく)と中央同盟国(主にドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国)の両陣営に二分した。イタリア王国ドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を締結していたが、未回収のイタリアを巡ってオーストリアと対立していたため、英仏とロンドン密約を結んで連合国側で参戦した[9]

諸国が参戦するにつれて両陣営の同盟関係は拡大されていき、例えばイギリスと日英同盟を結んでいた大日本帝国は連合国として、ドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国は中央同盟国側について参戦した[10]。参戦国や戦争に巻き込まれた地域は、2018年時点の国家に当てはめると約50カ国に達する[11]
名称

第一次世界大戦は、第二次世界大戦が勃発するまで、世界戦争 (World War) または大戦争 (Great War) と呼ぶのが一般であった[12]。あるいは、欧州大戦 (War in Europe)、戦争を終わらせるための戦争 (the war to end war[13]) という表現もあった[13][14]。主に第一次世界戦争(First World WarまたはWorld War I)と呼ばれるようになったのは第二次世界大戦以降である[15][16]

このうち「世界戦争」 (ドイツ語: Weltkrieg) という用語が初めて使われたのはドイツ帝国であり、この名称が使われた背景にはドイツの帝国主義政策「世界政策」 (Weltpolitik) の存在などがあったという[17]。1917年のアメリカ合衆国参戦後、合衆国国内でも「世界戦争」という名称が従来の「ヨーロッパ戦争」に取って代わった[17]

「第一次世界戦争」 (First World War) という用語が初めて使われたのは、1914年9月、ドイツの生物学者、哲学者であるエルンスト・ヘッケルが「恐れられた『ヨーロッパ戦争』は疑いもなく(中略)完全な意味での『初の世界戦争 (the first world war) 』となるだろう」と述べた時だった[注釈 3][18]。1939年に第二次世界大戦が勃発した後「第一次世界戦争」という用語が主流になったが、イギリスとカナダの歴史家はFirst World Warを、アメリカの歴史家はWorld War Iを多用した[19]

一方、「大戦争」 (英語: Great War, フランス語: la Grande Guerre) という用語は、主に大戦中のイギリス・フランス両国で用いられた[17]。カナダでも1914年10月号のマクリーンズ誌(英語版)が「大戦争」 (Great War) とした[20]。1930年代以降、英仏両国でも「世界戦争」が第一次世界大戦の名称として使われるようになるが、2014年においても第一次世界大戦を指して「大戦争」と呼ぶ用法は両国内で広く用いられているという[17]

歴史家のガレス・グロヴァー(英語版)は著書の『100の物が語るウォータールー』 (Waterloo in 100 Objects) で、「この前置きは大戦争という名称が常に1914年から1918年までの第一次世界戦争を意味する環境で育った人にとっては当惑するものかもしれない。しかし、1918年以前を生きた人々にとって、大戦争という称号はイギリスが1793年から1815年までの22年間、フランスと戦った革命戦争ナポレオン戦争を意味した」と述べた[21]。例えば、歴史家のジョン・ホランド・ローズは1911年に『ウィリアム・ピットと大戦争』 (William Pitt and the Great War) という著作を出版したが、題名の「大戦争」はフランス革命戦争とナポレオン戦争を指している。

木村靖二によれば、日本で定着した名称「世界大戦」は、「世界戦争」と「大戦争」のいずれでもなく両者を組み合わせたものであり、他国には見られない珍しい名称であるという[17]
略史

戦争の引き金となったのは1914年6月28日、ユーゴスラヴィア民族主義者(英語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺した事件(サラエボ事件)だった。

これにより、オーストリア=ハンガリーはセルビア王国最後通牒を発するという七月危機が起こった[22][23]。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる[24]。そして、それまでの数十年間に構築されていた欧州各国間の同盟網が一気に発動された結果、数週間で主要な欧州列強が全て参戦することとなった。

まず7月24日から25日にはロシアが一部動員を行い、28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、ロシアは30日に総動員を命じた[25]。ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求、それが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。東部戦線で人数的に不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部で第二の戦線を開くよう要請した。1870年の普仏戦争の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて、8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。独仏国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェン・プランに基づきベルギールクセンブルクに侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。しかしその結果、ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した[26][27]。イギリスと同盟を結んでいた日本も連合国として、8月23日にドイツに宣戦布告した。

ドイツ陸軍のパリ進軍が1914年9月のマルヌ会戦で食い止められると、この西部戦線消耗戦の様相を呈し、1917年まで塹壕線がほとんど動かない状況となった。東部戦線ではロシアがオーストリア=ハンガリーに勝利したが、ドイツはタンネンベルクの戦い第一次マズーリ湖攻勢でロシアによる東プロイセン侵攻(英語版)を食い止めた。1914年11月にオスマン帝国が中央同盟国に加入すると、カフカースと中東メソポタミアシナイ半島)の戦線が開かれた。1915年にはイタリアが連合国に、ブルガリアが中央同盟国に加入した。


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