第一次世界大戦
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1882年にはチュニジアを巡るフランスとの対立から、イタリア王国が加入して三国同盟となった[31]。またアジアにおいては、1902年に日本イギリス日英同盟を締結した。

ビスマルクはフランスおよびロシアとの二正面作戦を防ぐべく、ロシアをドイツ側に引き込もうとした。しかし、ヴィルヘルム2世ドイツ皇帝に即位すると、ビスマルクは引退を余儀なくされ、彼の同盟網は重要性が薄れていった。例えば、ヴィルヘルム2世は1890年にロシアとの独露再保障条約の更新を拒否した。その2年後に、ロシアは三国同盟への対抗としてフランスと露仏同盟を締結した。またイギリスも、1904年にフランスと英仏協商を、1907年にロシアと英露協商を締結した。これらの協定はイギリスとフランス、ロシア間の正式な同盟ではなかったが、フランスとロシアが関与する戦争にイギリスが参戦する可能性が出て、これらの二国間協定は後に三国協商と呼ばれた[9]
軍備拡張競争「英独建艦競争(英語版)」も参照ドイツがイギリスのドレッドノートへの対抗として建造したナッサウ級戦艦ラインラント後にイギリス首相となるウィンストン・チャーチルが、第一次世界大戦前に海軍大臣に就いていた時、ドイツの軍拡に対抗するため、海軍予算の増額を主張し、与党ではなく野党保守党(TORY)から支持を受けたことを風刺した絵(1914年1月14日『パンチ』誌)。

普仏戦争後の1871年にドイツ統一が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立すると、ドイツの政治と経済力が大きく成長した。1890年代中期以降、ヴィルヘルム2世率いるドイツ政府はそれを基盤として莫大な資源を投入、アルフレート・フォン・ティルピッツ提督率いるドイツ帝国海軍を設立して、海軍の優越をめぐってイギリス海軍と競争した[32]

その結果、両国は主力艦の建造でお互いを追い越そうとした。1906年にイギリスのドレッドノートが竣工、イギリス海軍の優勢を拡大させた[32]。英独間の軍備拡張競争は全ヨーロッパを巻き込み、列強の全員が自国の工業基盤を軍備拡張に投入し、汎ヨーロッパ戦争に必要な装備と武器を準備した[33]。1908年から1913年まで、ヨーロッパ列強の軍事支出は50%上昇した[34]
バルカン半島の紛争1908年のオーストリアによるボスニア併合宣言を読むサラエヴォの住民(1908年10月)

オーストリア=ハンガリー帝国は、1878年にオスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領したが、1908年にそれを正式に併合して、1908年から1909年にかけてのボスニア危機を引き起こした。これはセルビア王国とその後援国で汎スラヴ主義を支持していたロシア帝国を沸騰させた。バルカンでの平和合意は既に揺らいでおり、さらにロシアの政治活動もあってバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるに至った[35]

1912年から1913年にかけて、バルカン同盟と徐々に解体していったオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が勃発。その講和条約であるロンドン条約ではアルバニア公国が独立した一方、ブルガリア王国、セルビア王国、モンテネグロ王国ギリシャ王国は領土を拡大した。1913年6月16日にブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃して第二次バルカン戦争が起き、この33日間の戦争ではブルガリアが大敗。マケドニアの大半をセルビアとギリシャに、南ドブルジャ(英語版)をルーマニア王国に割譲せざるをえず、バルカンが更に不安定になった[36]

列強はこの時は紛争をバルカン半島内に抑えることに成功したが、次の紛争はヨーロッパ全体に飛び火し、戦火はやがて全世界を巻き込んだ。
開戦
サラエヴォ事件詳細は「サラエヴォ事件」を参照この写真は一般的にはガヴリロ・プリンツィプが逮捕される瞬間とされているが、一部の文献[37][38]では見物人の一人であるフェルディナント・ベール (Ferdinand Behr) としている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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