連合国はロシア帝国が民主主義に反対したためプロパガンダに問題が生じていたと考え、ロシアで革命が起きる事態をむしろ歓迎した。ドイツは3月21日(ユリウス暦)/4月3日(グレゴリオ暦)にウラジーミル・レーニンらボリシェヴィキ約30人をスイスからフィンランド経由でロシアに帰国させた(一部はドイツの鉄道を利用した)。ロシア社会民主労働党の一部であったボリシェヴィキ(「多数派」の意)は1905年革命以降、その指導層の大半が亡命していた。開戦からロシア政府の戦争政策に反対しており、「現在の帝国主義の戦争を内戦に」[167]転化しようとしたが、戦争初期では失敗した。ドイツ政府はアレクサンドル・パルヴスを仲介人にして当時スイスに住んでいたレーニンと接触。続いて大量の資金(数百万マルクとされる)をロシアの革命家に提供してロシアを不安定にしようとした[168]。レーニンは帰国直後の4月7日(ユリウス暦)/4月20日(グレゴリオ暦)に四月テーゼを発表。革命の進展についての見解を述べるとともに戦争の即時終結を要求、厭戦気分に満ちた民衆の支持を受けた。政府はちょうど労働者の日(4月18日(ユリウス暦)/5月1日(グレゴリオ暦))にミリュコーフ通牒(英語版)を送って、単独講和なしで戦争継続することを約束したため、民衆の怒りを買って四月危機(英語版)を引き起こしてしまった。その結果、ソビエトの中道左派が臨時政府に入閣した[169]。無人地帯にいる両軍の兵士。両軍の兵士、1917年。
5月6日(ユリウス暦)/5月19日(グレゴリオ暦)に成立した第一次連立政府で陸海軍大臣に就任したアレクサンドル・ケレンスキーはペトログラード・ソビエトの副議長でもあった。彼は「敗北なしの平和」を達成すべく、ベレジャヌィ(英語版)、リヴィウ、ヴィリニュスを目標とした、後にケレンスキー攻勢と呼ばれた攻勢を命じた。攻勢は6月29日に始まり、まずスタニスラーウに対して、東部戦線でそれまでになかった激しさの砲火を浴びせた後、ロシア軍は7月11日にカールシュ(英語版)まで進軍したが、直後に敗走。他の前線でも敗れた。その結果、多くの兵士が脱走、ロシア軍が解体し始めた。ケレンスキーは7月25日に攻勢を中止した。中央同盟国は反撃に出て、8月3日までにタルノーポリやチェルニウツィーまで進軍、東ガリツィアとブコビナを奪回した[170]。ロシアでもボリシェヴィキが七月蜂起を起こしたが鎮圧された。レーニンはフィンランドに逃亡した[171]。9月、ドイツ軍はリガを占領(リガ攻勢)。10月にはアルビオン作戦でバルト海のサーレマー島、ヒーウマー島、ムフ島を占領し、ロシア軍はほぼ完全に崩壊した[172]。
9月末、ロシアのラーヴル・コルニーロフ将軍がクーデターを企図して失敗すると(コルニーロフ事件(英語版))、ケレンスキーは革命を守るためにボリシェヴィキに頼らなければならず、ボリシェヴィキは名実ともに名誉回復した。そして、フィンランドから帰国したレーニンが10月24日(ユリウス暦)/11月6日(グレゴリオ暦)に十月革命を起こし、翌日には臨時政府が転覆されてボリシェヴィキが権力を奪取した。そのさらに翌日にはボリシェヴィキが平和に関する布告を発し、中央同盟国を東部戦線から解放する結果となった[173]。
12月5日、中央同盟国とロシアの間で10日間の停戦協定が締結された。その後、停戦は数度延長され、12月22日にはブレスト=リトフスクで講和交渉が開始した。最終的には1918年3月3日にブレスト=リトフスク条約が締結された[174]。
ドイツ、西部戦線で守勢にフランス軍による、ドイツ軍への突撃が失敗した一幕。1917年のフランドル。爆撃を受けた森、イーペル付近、1917年。
3月、ドイツ軍は西部戦線でアルベリッヒ作戦を発動して、16日から19日にかけてソンム川からヒンデンブルク線(英語版)に撤退した。1916年のヴェルダンとソンム会戦でドイツ軍が疲弊したことが撤退の理由だった。撤退はループレヒト・フォン・バイエルン王太子軍集団(英語版)が発案、ルーデンドルフの反対を押し切って実施した。ヒンデンブルク線の建築は第一次世界大戦最大の建築工事であり、主に捕虜と強制労働に駆り出された労働者によって行われた。ドイツ軍は焦土作戦を行って撤退直前に陣地を系統的に破壊して、住民を追放。一部地域では地雷やブービートラップも設置した。バポーム(英語版)などの地域が完全に破壊され、サン=カンタンの住民4万人など合計15万人が追放された。作戦自体はドイツ軍の前線を縮めて、守備の整ったヒンデンブルク線に撤退したことで一定の成功を収め、連合国軍が1917年春に計画した攻撃は無駄に終わった。しかし、作戦の「影響を受けた地域の民衆の生活を完全に破壊、歴史的な風景を荒れ地に変えた」ことで、国外の世論がドイツに不利になった[175]。
フランス軍大本営があるシャンティイで行われた連合国の第二次会議(1916年11月)では再び合同攻勢が決定された。ソンム会戦で敗れた連合国軍は1915年の戦術に立ち返り、リールとヴェルダンの間にあるドイツの突起部を両側から攻撃して他のドイツ部隊からの切断を図る、という戦術を再び採用した。攻勢の最高指揮官ロベール・ニヴェルはフランス北部のアラスを攻撃の始点に選び、イギリス軍(カナダとニュージーランド部隊含む)が4月9日に攻撃を開始した(アラスの戦い(英語版))。直後にはフランス軍もエーヌ川とシャンパーニュで攻勢に出て(第二次エーヌ会戦(英語版)と第三次シャンパーニュ会戦(英語版))、シェマン・ド・ダーム(英語版)の占領を狙った。ルートヴィヒ・フォン・ファルケンハウゼン(英語版)将軍(後に罷免された)の部隊はアラスでの攻撃で奇襲を受け、兵士2万4千が出撃しなかったままとなったため、ドイツ軍は兵士への再教育を行った[176][177]。連合国軍の攻勢に使われた物資は前年のソンム会戦よりも多かった。カナダ師団はヴィミ・リッジの戦い(英語版)に勝利して戦略要地であるヴィミ・リッジを占領したが、その後は進軍できず、戦線が膠着した。フランス軍はヴィミ・リッジから130km南のところで攻撃を仕掛け、前線を押し出したがシェマン・ド・ダームの占領には失敗した。結局、連合国軍は大損害を出して5月には攻勢を中止した。フリッツ・フォン・ロスベルク(英語版)が縦深防御戦術を編み出した後、ドイツ軍の防御の配置がより深く複雑になった。英仏軍の戦車(合計170台)は技術上の問題があり、しかも数が足りなかったため戦局に大きな影響を及ぼさなかった。また両軍とも毒ガスを使用した[178]。
シェマン・ド・ダームへの攻勢が失敗した結果、フランス軍の68個師団で反乱がおきた(フランス軍200万のうち約4万が反乱)。イギリスがアラスの戦いで勝利したことで期待が高くなったことも一因であった。反乱に最も影響された5個師団はソワソンとランスの間、シェマン・ド・ダームへの攻勢が行われた地域の南に配置されており、同地に配置されたロシア海外派遣軍(英語版)も同じような問題に遭った。