ドイツ社会民主党の国会議員と党首は11月27日に国会でベートマン・ホルヴェーク宰相に対し、いつ、どのような条件で講和交渉をするかを質疑することを決定した。ベートマン・ホルヴェークは質疑を取り下げさせることに失敗し、12月9日には国会で喚問された。彼はフィリップ・シャイデマンの質問に対し、東部と西部の「安全」(併合)が平和に不可欠であるとしたが、外国では「覇権主義の演説」として扱われた。その結果、国会では12月21日に社会民主党の代表20名が戦争借款の更新を拒否。ベートマン・ホルヴェークを「併合の主導者」としてこき下ろした声明を出した[137]。
1916年の戦闘第一次世界大戦中、エミール・デープラーによるリトグラフ。ドイツの突撃歩兵、1916年の西部戦線にて。東部戦線の軍人墓地、1916年。
モンテネグロとアルバニアの占領オーストリアが発行したプロパガンダ。オーストリア兵がアルバニア女性に迎えられ、背景ではイタリア兵が逃げ出している。下端には「やっと正義の味方がやって来た」とある。1916年2月。詳細は「オーストリア=ハンガリー占領期のモンテネグロ(ドイツ語版)」および「第一次世界大戦下のアルバニア(英語版)」を参照
1月4日、オーストリア軍がモンテネグロ王国に侵攻。23日にはモンテネグロ王ニコラ1世が降伏し、フランスへ逃亡した(モンテネグロ戦役(英語版))。アルバニア公国も約3分の2の領土をオーストリア=ハンガリー軍に占領された。これを受け、当時モンテネグロとアルバニアに撤退していたセルビア軍の大半は更に撤退した。まずイタリアの遠征軍が1915年12月に上陸し、占領していたドゥラス(アルバニア中部)へ向かった。続いて1916年3月にイタリアがドゥラスから約26万人を撤退させた時、セルビア軍約14万人も撤退した。セルビア兵士は当時フランスに占領されていたケルキラ島(元はギリシャ領)に逃れ、再編成を受けた(6月にはフランスの東方軍(英語版)とともにテッサロニキに移った)。ニコラ・パシッチ(英語版)率いるセルビアの亡命政府もケルキラ島で成立した。ドゥラスから撤退した人のうち、オーストリア軍捕虜約2万4千人も含まれたが、この捕虜たちはサルデーニャ北西部のアジナーラ島に移送され、うち約5千人が死亡した[138]。イタリア軍はアルバニアの港湾都市ヴロラを維持することに成功したため、アルバニア南部での勢力を維持、拡張することができた。降伏したモンテネグロでは1916年2月26日から1917年7月10日までヴィクトル・ヴェーバー・エドラー・フォン・ヴェーベナウ(英語版)が軍政府を率いた[139]。一方、アルバニアはオーストリア=ハンガリーと積極的に戦わなかったため、オーストリア=ハンガリーの外交官アウグスト・リッター・フォン・クラル(英語版)の指導下ではあるものの文民による統治委員会の成立が許された[139]。オーストリア=ハンガリーはアルバニア人の統治への参加を許し、学校とインフラストラクチャーを建設したことでアルバニア人の支持を得ようとした[140]。
ヴェルダンの戦い1914年時点の西部戦線。ヴェルダンが突起部になっている。
西部戦線では2月21日、ヴェルダンの戦いが始まった。作戦の発案者ファルケンハインが1920年に出版した著述によると[141]、後世に残った印象と違い、ヴェルダンの戦いは無目的にフランス軍に「出血」を強いるものではなかったという。彼はその著述で攻撃の失敗を弁護し、「血の水車」という伝説に反論しようとした。ヴェルダン攻撃を着想したのはドイツ第5軍の指揮官ヴィルヘルム皇太子で、参謀コンスタンティン・シュミット・フォン・クノーベルスドルフ(英語版)がその任務を受け持った。ヴェルダンの要塞はフランス国内で最も堅固な要塞だったが、1915年にはその武装が一部解除されており、ドイツ軍部はヴェルダンを攻撃することで西部戦線に活気をもたらそうとした。また、ドイツ軍から見るとヴェルダンは東のサン=ミーエル(英語版)と西のヴァレンヌに挟まれたフランス軍の突起部であり、ドイツ軍の前線を側面から脅かしていた[142]。ヴェルダンの占領自体が戦闘の主要な目的ではなく、マース川東岸の台地を占領することで大砲をヴェルダンを見下ろせる位置に配置することができ、ヴェルダンを守備不能にすることが目的だった。ファルケンハインは、フランスが国威を維持するために(普通ならば受け入れられない損害を出してでも)ヴェルダンを死守すると考えていた。しかし、ドイツ軍の計画が成功した場合、フランスがヴェルダンを維持するためにはドイツ砲兵の占領した高台を奪回しなければならず、1915年の戦闘の経験からは不可能だと思われた[143]。ドゥオモン要塞(英語版)にある爆発の跡、1916年。
ヴェルダンの戦いの第一段階において、ドイツ軍第5軍の8個師団は大砲1,500門で8時間にわたって箱型弾幕を放った。この砲撃はヴェルダンの北にあるオルヌ(英語版)(現代では消滅集落)で長さ13kmの前線にわたって行われた。ドイツ軍の予想と違い、フランス軍が激しく抵抗したため当初はほとんど前進できなかった。ドイツ軍は2月25日にドゥオモン要塞(英語版)を占領したが、要塞が東向きだったため戦術的にはあまり重要ではなかった[注釈 8]。しかし、ドゥオモン要塞を失ったフランスは何としてもヴェルダン要塞を死守しなければならないと決定、ヴェルダンの守備にフィリップ・ペタン将軍を任命した。フランスはバル=ル=デュックとヴェルダンを繋ぐ唯一の道路(神聖街道(英語版)と呼ばれた)で、兵士を交替させる補給システムを築いた(このシステムはノリア(ドイツ語版)と呼ばれた)。ヴェルダンの戦いの第一段階はフランス砲兵がマース川西岸の台地から砲撃してドイツ軍の進軍を停止させたことで3月4日に終結した[142]。
第二段階ではファルケンハインがドイツ第5軍からの圧力で、これらの台地への攻撃を許可した。台地のうち、ドイツ軍はル=モルトーム(英語版)(「死人」の意)という台地を何度か奪取したが、すぐに奪い返された。ル=モルトームとその隣の304高地はヴェルダンの戦いで残忍な戦闘が起こったため「ヴェルダンの地獄」(Holle von Verdun) の象徴とされている[142]。
第三段階ではドイツ軍が再びヴェルダンの占領に集中、6月2日にヴォー要塞(英語版)への強襲を開始した。23日には兵士7万8千でヴォー=フルーリー線(英語版)への攻撃を開始したが、戦況は膠着した。直後の第四段階ではドゥオモンのすぐ南にあるティオモン堡塁(フランス語版)をめぐって激しい戦闘が行われた。そして、ドイツの攻勢はヴェルダンから北東約5kmのスーヴィル要塞(フランス語版)で行き詰まった。7月11日、ファルケンハインは攻勢が行き詰まったことと、7月1日に連合国軍が攻勢に出てソンムの戦いが開始したことを理由に攻勢の停止を命じた[142]。 1916年初、ドイツの首脳部は再び対英潜水艦作戦の増強について討議した。セルビアが敗れたことで、ファルケンハインはヴェルダン攻勢のほかにも(アメリカを敵に回してでも)イギリスに対しより積極的に行動する時期が来たと考えた。ヘンニング・フォン・ホルツェンドルフ
ティルピッツの辞任とユトランド沖海戦