第一次世界大戦
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4月24日、コンスタンティノープルでアルメニア人知識層が多数逮捕された[注釈 5]。ロシア外相セルゲイ・サゾーノフは5月24日に(4月27日に準備された)抗議文を発表、アルメニア人の100集落以上でアルメニア人がオスマン政府によって系統的に虐殺されたと主張した。

翌日(5月25日)、オスマン内相タラート・パシャはアルメニア人を戦域からシリアとモースルに強制移送すると発表した。27日と30日にはオスマン政府が強制移送法を発表、系統的なアルメニア人虐殺とアッシリア人虐殺(英語版)が始まった。ドイツ大使ハンス・フォン・ヴァンゲンハイム(英語版)は6月にドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークに報告を行い、「世界大戦を利用して内部の敵、すなわちキリスト教徒を外国の外交介入なしに廃除する」というタラート・パシャの考えを伝えた[123]エルズルムにいたドイツ駐オスマン帝国副領事マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターも7月末に「アルメニア人に対する行動の最終的な目的はトルコにおける絶滅である」と報告した[124]。ヴァンゲンハイムの後任パウル・ヴォルフ・メッテルニヒ(英語版)は1915年12月にアルメニア人側で介入しようとし、ドイツ政府にアルメニア人の強制移送と虐殺を発表するよう提案したが、ベートマン・ホルヴェークは「戦争の最中、公的に同盟者と対決することは前代未聞だ。私たちの唯一の目的は、アルメニア人が滅ぶか滅ばないかにかかわらず、終戦までトルコを味方につけ続けることだ。」と拒否した[125]ローマ教皇ベネディクトゥス15世もオスマン帝国スルタンのメフメト5世に手紙を書いたが、時既に遅しであった。アルメニア人虐殺により終戦までに約100万人が死亡、同時代では1894年から1896年までのポグロムの虐殺(英語版)や1909年のアダナ虐殺(英語版)と比べてホロコースト(英語版)と呼ばれた[126]
ブルガリア王国の参戦、1915年のセルビア戦役ヴィルヘルム2世フェルディナントとドイツのアウグスト・フォン・マッケンゼン元帥。セルビア王国ニシュにて、1915年。ブルガリア人兵士、1916年。

1915年10月14日にブルガリア王国が中央同盟国側で参戦した。その背景にはブルガリアがバルカン戦争で「ブルガリア民族の国」を建国するための領土拡張に失敗したことがあった。ブルガリアが第一次バルカン戦争で勝ち得た領土は1913年のブカレスト条約でほぼ全て返還されることとなり、またブルガリアは一連の戦争で弱体化した。1914年8月1日、ブルガリア首相ヴァシル・ラドスラホフ(英語版)率いるブルガリア政府は厳正中立を宣言したが、中央同盟国も連合国もどちらもブルガリアに働きかけて各々の陣営に引き込んで参戦させようとした。交渉が開始された時点では中央同盟国の方が有利であった。というのも、ブルガリアの領土要求はセルビア、そして(連合国側での参戦が予想される)ルーマニア王国ギリシャ王国の領土を割譲させることによって容易に達成できるからであった。結果的には中央同盟国がブルガリアにマケドニアドブロジャ東トラキアの獲得を約束。また1915年秋には情勢が中央同盟国にやや有利だったため、ブルガリアは中央同盟国に味方した。セルビアを攻撃することで、オスマン帝国と陸路での連絡を成立させたかった中央同盟国に対し、ブルガリアは9月6日に協力に同意した。ブルガリアの参戦は賛否両論だったが、政府が参戦を決意すると、反対派は社会民主主義者の一部を除いて戦争遂行に協力した。10月6日、アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥率いるセルビア攻勢(ドイツ語版)が始まり、10月14日にはブルガリアがセルビアに宣戦布告した。これにより、セルビアは数的には劣勢になり、連合国がテッサロニキの北で部隊を上陸させた後でも劣勢が覆らなかった。ギリシャは1913年6月1日にセルビアと相互援助条約を締結したが(ギリシャ・セルビア同盟(英語版))、連合国軍の支援が不足しているとして参戦を拒否した[127]ベオグラードが10月9日に、ニシュが11月5日に陥落すると、ラドミル・プトニク率いるセルビア軍(開戦時には36万人いたが、この時点では15万しか残っていない)は捕虜約2万人を連れてアルバニア公国モンテネグロ王国の山岳地帯に撤退した。セルビア軍はケルキラ島で再編された後、マケドニア戦線に投入された。占領されたセルビア(英語版)はオーストリア=ハンガリーとブルガリアの間で分割された[128]
その他の戦線

カフカース戦線(英語版)のサリカミシュの戦い(英語版)は1915年1月5日にオスマン帝国の大敗に終わった[129]。シナイ半島とパレスチナ戦役(英語版)ではフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン(英語版)率いるオスマン軍が1月末にスエズ運河に向けて攻勢に出たが失敗した(スエズ運河襲撃(英語版))[130]

1915年7月にはドイツ領南西アフリカの植民地守備隊 (Schutztruppe) が降伏し、南西アフリカ戦役(英語版)が終結した。

メソポタミア戦役(英語版)ではイギリス軍の進軍が11月22日から25日までのクテシフォンの戦い(英語版)で(実質的にはコルマール・フォン・デア・ゴルツ率いる)オスマン軍に阻止された。また、イギリス領インド軍の海外派遣部隊が12月7日にクート包囲された[131]
1915年の社会と政治欧州に向かう日本赤十字の救護団。1915年ロシア支援にあたる日本陸軍。シベリア、1915年

12月にフランス軍の総指揮官に就任したジョゼフ・ジョフルは12月6日から8日まで連合国間のシャンティイ会議(英語版)を開催した[注釈 6]。中央同盟国の内線(英語版)を有利に利用すべく、1916年中に全ての前線で共同して攻勢に出ることが計画された[132]。イギリスではガリポリの戦いの失敗により、ハーバート・ヘンリー・アスキス内閣は5月に改造してそれまで野党であった保守党の入閣に同意せざるを得なかった。このアスキス挙国一致内閣(英語版)では1915年春の砲弾危機(英語版)に対応するために軍需大臣(英語版)が新設された。

10月と11月にはドイツでのグロサリー、配給所やフライバンク(ドイツ語版)[注釈 7]に対する食料制限の引き締めにより、まず暴動が起き、続いて主に女性によるデモが行われた。11月30日、女性58人が首都ベルリンウンター・デン・リンデンでデモを行った時に逮捕されたが、この逮捕には報道管制が敷かれた[133]。また1914年11月には既に穀物、パン、バター、ポテトの値段が大幅に上昇し、農民も都市部には供給したくなかった[134]。供給問題の原因は当局が戦争の長期化を予想せず全く準備しなかったこともあったが、戦争により食料品と硝酸塩化学肥料の生産に必要)の輸入が止まり、戦争に馬と兵士が動員され、農業をする人手が足りなくなったことにもよる。1914年末、参議院(英語版)がパン、ポテト、砂糖の最高価格を定め、1915年1月には他の基本食料品にも同じ措置がとられたため、ドイツの農民は闇市で取引するようになった。1915年末には「インフレが脅威になってきた。より厳しい食料制限が始まり、最近数週間の雰囲気が変わってきた。特に女性の間で『食料をくれ!それから、私の夫も!』という怒りの叫びをするようになった。」という観察もあったという[135]。闇市の隆盛により、ドイツではイギリスの海上封鎖のみが食料不足の原因であるとする政府のプロパガンダを信じる者が減少した。


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