第一次世界大戦
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イギリスの商船が武装を強化したため、Uボート[注釈 4]は安全が脅かされ、捕獲物(英語版)に関する戦時国際法を完全に順守することができなかった。さらに、潜水艦の指揮官への指示が不明確で、海軍は中立国船舶の航行を妨げるために無警告で攻撃する無制限潜水艦作戦であると仮定した。しかし、ドイツの発表に中立国が抗議したため、Uボート作戦(英語版)は中立国の船舶を攻撃しないよう限定された[102]

5月7日、ドイツの潜水艦U-20(英語版)がイギリスの客船ルシタニア号を撃沈(英語版)、国際世論による抗議の波を引き起こした。ドイツ駐ワシントン大使館は新聞に警告文を掲載したが、ルシタニア号が5月1日にニューヨークを出港した時にはアメリカ人200人以上が乗船していた。「戦争物資と弾薬を載せた」というルシタニア号[103]が5月7日に撃沈されると、子供100人近くとアメリカ人127人を含む合計1,198人が死亡した[104]。アメリカの世論は憤慨した。米独間で覚書が交換され、ヴィルヘルム2世は6月1日と6日にドイツ最高司令部の支持を得た首相の要請を受け、潜水艦が中立国の船舶と大型旅客船を撃沈しないことを約束した。しかし、この決定を聞くと、アルフレート・フォン・ティルピッツ海軍元帥とグスタフ・バッハマン(英語版)提督が辞表を出した(2人の辞任は拒否された)。U-24(英語版)が客船のアラビックを撃沈、再びアメリカ人の死者を出してしまうと、ドイツ駐アメリカ大使ヨハン・ハインリヒ・フォン・ベルンシュトルフ(英語版)がアメリカ政府にヴィルヘルム2世の決定を通知した(アラビックの誓約、Arabic pledge)[105]。8月末、ヴィルヘルム2世の決定がエルンスト・ツー・レーヴェントロー(英語版)やゲオルク・ベルンハルト(ドイツ語版)などドイツの新聞編集長に告知された。彼らは軍部の指示を受けて無制限潜水艦作戦と反米のキャンペーンを直ちに停止した[106]
東部戦線決着への試み

東部戦線において、ドイツ軍は新しく到着したドイツ第10軍(英語版)の助力で2月7日から22日までの第二次マズーリ湖攻勢に勝利、ロシア軍をようやく東プロイセンから撤退させた[107]ロシア軍との前線、1915年5月時点(青線)と9月時点(青破線)。

1914年11月にパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリッヒ・フォン・ルーデンドルフが東部戦線のドイツ軍総指揮官に任命された以降、2人は東部戦線の決着を目指した。ドイツの目的はロシアを弱らせることによって、連合国の同盟の解体を準備しようとした。当時の東部戦線はロシアがガリツィア全体を占領している状態であり、単独講和できる状態にないため、軍事上の圧力をかけることによってロシアへの圧力を増すことと、中立国、特にバルカン諸国に良い印象を与えることができると考えられた[108]。さらに、イタリアが参戦してくる恐れがあったためオーストリア=ハンガリーは戦略的危機に陥っていた。

ロシア軍はカルパティア山脈の冬季戦役を有利に進めており、イタリアが参戦するとオーストリア=ハンガリー軍はイゾンツォ川カルパティア山脈の間で挟み撃ちにされる形になり、オーストリア=ハンガリー帝国の終焉を意味するほどの危機となる。そこで考えられるのが、西ガリツィアからサン川方面へ突破して、ロシア軍にカルパティア山脈からの撤退を迫る(撤退しなければドイツとオーストリア=ハンガリーの挟み撃ちを受ける)ことだった。この戦略を実行に移すため、1915年春にアウグスト・フォン・マッケンゼン率いるドイツ第11軍(英語版)が西部戦線から東部戦線に転配された。5月1日から10日まで、クラクフの東でゴルリッツ=タルヌフ攻勢が行われた。この攻勢において、ドイツとオーストリア=ハンガリー第4軍(英語版)は予想外に善戦してロシアの陣地に深く侵入、5月中旬にはサン川までたどり着いた。この戦闘は東部戦線の変わり目だったが、オーストリア=ハンガリーは開戦から1915年3月まで約200万人の損害を出しており、ドイツの援助に段々と依存するようになった[109]

6月、中央同盟国はゴルリッツ=タルヌフ攻勢に続いてブク攻勢(ドイツ語版)を開始した。6月4日にプシェムィシルを、22日にレンベルクを再占領した後、ロシア領ポーランドに突起部(英語版)を作ることが可能のように見えた。南と北とで共同して攻撃を仕掛けることで、ロシア軍を包囲するという計画がドイツ最高司令部(実際に計画を立てたのはルーデンドルフだった)から示されたが、ファルケンハインとマッケンゼンはマルヌ会戦の惨状を見て、ルーデンドルフの計画を野心的すぎるとしてそれを縮小させた。6月29日から9月30日までのブク攻勢と7月13日から8月24日までのナレフ攻勢(ドイツ語版)はロシアの大部隊を包囲するには至らなかったが、ロシア軍にポーランド、リトアニア、そしてクールラントの大半からの大撤退を強いることができた。

大撤退の結果、ロシア軍の前線が1,600kmから1,000kmに短縮された。中央同盟国は9月までにワルシャワ(8月4日)、ブレスト=リトフスクヴィリニュスなど重要な都市を続々と占領した。ロシア領ポーランドではルブリンを首都とするオーストリアのルブリン総督府(ドイツ語版)とワルシャワを首都とするドイツのポーランド総督府(英語版)が成立、中でもドイツの東部占領地(英語版)では経済的搾取を行う占領政策がとられた。9月末、ルーデンドルフ率いるドイツ第10軍(英語版)がミンスクに、オーストリア=ハンガリー軍がリウネに進軍しようとしたが失敗した。損害ではロシア軍の方が上だったが、1915年9月に大撤退が終結した後でも数的優位を維持したため、ドイツ軍の大半を西部戦線に移すという計画は実施できなかった[110]
1915年の西部戦線1915年の連合国軍はリールとヴェルダンの間にあるドイツ軍の突起部を攻撃しようとした。

西部戦線においては連合国軍がドイツ軍の両翼に圧力をかけてリールヴェルダンの間にある大きい突起部を切り離し、あわよくば補給用の鉄道を断つという伝統的な戦略をとった。


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