第一次世界大戦の賠償
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物納・家畜賠償

244条第四付属書は損害の直接的賠償として、セメント・ガラス・鋼鉄・レンガ・木材・機械・家具・暖房器具等を提供することが定められた。また1919年12月31日までに以下の家畜を物納することを定めている。
対フランス

3歳から7歳までの種牡馬…500頭

18ヶ月から7歳までの子牝馬及び牝馬…3万頭

18ヶ月から3歳までの牡牛…2000頭

2歳から6歳までの乳牛…9万頭

雄緬羊…1000頭

緬羊…10万頭

山羊…1万頭

対ベルギー

3歳から7歳までの種牡馬…200頭

3歳から7歳までの牝馬…5000頭

18ヶ月から3歳までの子牝馬…5000頭

18ヶ月から3歳までの牡牛…2000頭

2歳から6歳までの乳牛…5万頭

子牝牛…4万頭

雄緬羊…200頭

緬羊…2万頭

山羊…1万5000頭

石炭納入

244条第五付属書はドイツが石炭とその関連製品を連合国に毎年無償提供することを定めている。
対フランス

毎年700万トンを10年間

上に加え、戦争によって破壊されたフランス国内炭鉱が戦前に産出していた額から現在の産出額を差し引いた量の補償。最大額は5年間2000万トン、残りの5年間800万トン。

さらに3年間以下の石炭関連製品を最低価格で売却する。

ベンゼン…3万5千トン

硫酸アンモニウム…3万トン

コールタール…5万トン。ただしフランスはコールタールのかわりに軽油・重油・無煙炭・ナフタリン・ピッチを要求することが出来る。


対ベルギー

毎年800万トンを10年間

対イタリア

450万トンから4年かけて徐々に引き上げ、最後の6年間には850万トンずつ引き渡す。合計は7700万トン。

対ルクセンブルク

賠償委員会の指定により、戦前ルクセンブルクが消費していたドイツ石炭と同量を毎年引き渡す。

その他の賠償

232条ではベルギーが大戦中に借り入れた対連合国債務の支払い肩代わりを求めている。

244条第7議定書はドイツが保有していた海底ケーブルの権利放棄を定めている。245条ではドイツが普仏戦争時にフランスで略奪した美術品、247条では侵攻によって焼失したベルギーのルーヴァン大学図書館に対する補償と、ベルギーの教会が保持していたが盗難され、当時ドイツの美術館にあった祭壇画の一部[22]をそれぞれ返却することとなった。また244条第六議定書は、1925年1月1日までの期間、ドイツが管理する染料や化学薬品の50%を賠償として物納することが出来ると定めている。

246条では19世紀末にアフリカでドイツ植民地支配に抵抗したムクワワ頭蓋骨をイギリスに、ヒジャーズ王国が紛失した第3代正統カリフウスマーン・イブン・アッファーンクルアーン(トプカプ写本(英語版))をヒジャーズ国王にそれぞれ返却することが定められているが、ウスマーンのクルアーンについてはドイツは保有していなかった。
賠償金額決定

賠償委員会は244条第二議定書によってパリに設置され、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本・ベルギー・ユーゴスラビア(セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国)がそれぞれ1名の委員と1名の副委員を出すこととなっていた。ただし委員会の評決に加われるのは五ヶ国の委員のみであり、アメリカ・イギリス・フランス・イタリアの委員が優先権を持っていた。日本は海上問題と日本関係、ベルギーは日本が関与する問題以外に優先権を持つこととされた。賠償委員会は賠償不払い時に領土差し押さえが出来るなど強大な権限を予定されていたが、それはアメリカの参加が前提であった[23]。しかしアメリカがヴェルサイユ条約を批准しなかったため参加しなかった。

このため1920年4月から1921年4月にかけて12回の会議が開かれた。フランスは自国の損害を1320億金マルクに達すると算出しており、フランス一国で1110億金マルクを請求し、ドイツが120億金マルクを42年間支払い続ける案を提出している。しかしイギリス側はドイツにその能力がないと反論している[24]。対独融和的なイギリスと対独強硬であるフランスの意見は対立し、協議は難航した1920年6月21日のブーローニュ会議では2690億金マルクという総額が暫定的に定められ、7月のスパ会議では賠償金配分がフランス52%、イギリス22%、イタリア10%、ベルギー8%、日本0.75%、ポルトガル0.75%であるとなり、残りの6.5%はユーゴスラビア、ルーマニア、ギリシャを含めた協定非署名国のため留保すると定められた[25]。11月にはドイツが賠償支払いを履行しない場合にはルール地方またはドイツ全土の占領が定められた。

1921年2月から3月のロンドン会議ではドイツ側が総額を500億金マルクとする対案を提出したが、連合国側は却下した上にデュースブルクなどドイツの三都市を占領するという強硬手段に出た。この占領は1925年8月25日まで行われている。4月から5月にかけて開かれた第二回ロンドン会議で、ドイツは総額2000億マルクという新たな対案を提示したが、連合国側は強硬であった。5月5日、最終的な案が定まり、総額は1320億金マルク(約66億ドル純金47,256トン相当)という1913年のドイツ国民総所得の2.5倍という莫大なものとなり[26]、ドイツはこの金額向こう30年間にわたって分割払い、しかも外貨で支払うことになった。最初の5年間には年20億マルク、さらに輸出額の26%を支払うことが定められ、以降は徐々に金額が増加し、最後の10年間には60億マルクに達するというものであった。さらに委員会は1921年中に10億マルクの支払いを求めた[27][28]。ベルリンには賠償支払い監視のための補償委員会が設置され、ドイツ国民の反発は高まった。ドイツは国債発行を行って1921年8月に10億金マルクを支払ったものの、フランスはこの資金がザール炭鉱の利益から出ているとして受け取らなかった。10月にはドイツがフランスに鉄鋼などの現物供給で賠償を支払うヴィースバーデン協定が結ばれたが、競合相手となるフランス産業界や他の連合国の批判を受けたために中止された[29]。1922年4月にはソビエト連邦とドイツが極秘交渉の末、ヴェルサイユ条約116条を事実上破棄し、賠償金を含む戦債を相互放棄するラパッロ条約を締結した[30]
ケインズの批判

ケインズは1919年12月に「平和の経済的帰結」(en:The Economic Consequences of the Peace)を著して賠償強硬派や「もしもロイド・ジョージ氏かウィルソン氏が、彼らの注意を必要とした諸問題で最も重大なものが、政治的あるいは領土的問題ではなく金融および経済に関するものであったこと、また将来の危険が国境や主権にではなく食糧、石炭および運輸にあることを理解していたら、 ヨーロッパはなんと異なった将来を予想しえたであろう」[31]と、首脳達を批判した。

さらに同書と1922年の「条約の改正」では予算問題とトランスファー問題(de)によってドイツの賠償支払いが著しく困難なものであると警告している。予算問題とはドイツ政府が賠償を支払うためには、政府財政で毎年黒字を計上せねばならない。黒字達成のためには増税や支出削減が必要であるが、賠償額が大きくなればなるほど国民生活を圧迫し、これが続けば労働意欲や生産力も低下するというものである。トランスファー問題とは、ドイツが賠償支払いを外貨で行わねばならないことから生じる問題で、ドイツが自国の財政黒字を外貨に両替するためには経常収支が黒字であることが必要であるが、現実的にはその達成が困難だと指摘したものである[32]。ケインズはこれらの理論により、イギリスとアメリカに対連合国債権をすべて放棄させた上で、ドイツに賠償額を30年賦で12億6000万金マルクずつ支払わせるのが妥当と算定した[33]
ルール占領とインフレーション「ルール占領」および「ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション」も参照

ドイツ政府の賠償資金調達の結果、マルク為替は下落し始めた。このため1922年5月期限の支払いが困難となり、ドイツは支払い延期を求めたが、フランスはほとんど応じず、マルクは1ポンド=5,575マルクまで下落した[27]。1922年1月のパリ会議で支払い猶予問題について話し合われ、一時的に支払い猶予が認められた。しかしフランスのアレクサンドル・ミルラン大統領やレイモン・ポアンカレ元首相は対独融和に強硬に反対し、合意に賛成したアリスティード・ブリアン首相は辞職した。その後もマルク暴落は続き、ドイツ政府は7月12日に6ヶ月の賠償支払い停止を求め、さらに1923年と1924年の賠償支払い不能を宣言した。イギリスは賠償金支払い猶予に応じるなど譲歩の構えを見せたが、フランス首相となったポアンカレや対米債務に苦しむ諸連合国は反対し、ポアンカレは抵当としてルール地方の鉱山管理権を要求した[34]


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