第一次上海事変
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事変の起きる前の日本と列強との関係について、大角岑生海軍大臣は「上海事件の起こる前に於ける日本と各国との関係は、すこぶる良好にして、即ち居留地外は上海市長呉鉄城の支配権内に在るも、居留地内は工部局行政権を握り、其の執行機関たる参事会員は外人9名支那人5名を以て組織せるものなるが、各国人も予め支那側の横暴なることを熟知し日本に対し同情せり。」と発言した[2]。前年の1931年6月15日には、共同租界工部局警察(英語版)が、上海租界で太平洋地域のプロフィンテルン支部(太平洋労働組合書記局)の連絡役であるイレール・ヌーランを逮捕して(ヌーラン事件、牛蘭事件)、日本の警察にも情報を渡していた。押収された文書には、「国民政府の軍隊内に、共産党の細胞を植付け、其戦闘力を弱める事が最も必要」だと記されていた[5]
租界における緊張の高まり

1932年、上海市郊外に、蔡廷?の率いる十九路軍の一部(第78師)が現れた。十九路軍は3個師団(第60師、第61師、第78師)からなり、兵力は3万人以上である。十九路軍は江西省での紅軍との戦闘で損耗し、再編成のために南京、鎮江、蘇州、常州、上海付近に駐留した。

日本は、防衛体制強化のため、上海に十数隻の艦隊を派遣した。また、「住民の生命や財産を守るため」として、虹口に隣接する中国領を必要に応じて占領する意図を明言していた。

共同租界の市参事会にとっては、日本軍の動きより市街の外に野営する十九路軍のほうが重要だった。十九路軍は5年前にあった上海クーデターにおける国民党軍を思い起こさせた。蔡廷?は、給与が支給されるまでは去らないと通告した[6]。しかし、蔡廷?の目的は未払い給与の支払いだけではなく、繁栄を極めていた上海の街を手に入れようとしているというのが共同租界防衛委員会の全員の意見だった[6]
排日貨運動

満洲事変勃発直後の9月22日、上海で開催された反日大会で「上海抗日救国連合会」が組織され、
国民政府に対し、軍事動員して日本軍を駆逐し占領地を回復するよう要請する

総工会及び失業者で救国義勇軍を組織する

日本からの水害慰問品を返還する

対日経済関係を絶つ。違反者があれば撲殺する

ことを決議し、日本資本の紡績工場で就労拒否が拡大し退職者が続出した。9月24日に上海の荷役労働者3万5千人が、26日には郵便、水道、電気、紡績、皮革など約100の労働組合がストライキを敢行。租界には抗日ポスターが貼られ、学生や労働者による集会が頻繁に開催されて「打倒日本帝国主義」が叫ばれ、日本人通学児童への投石事件も相次ぎ、学校は授業短縮や休校を余儀なくされた[7]

さらに10月13日、上海抗日救国連合会は、
日貨を買わず、売らず、運ばず、用いず

原料及び一切の物品を日本人に供給せず

日本船に乗らず、荷揚げせず、積荷せず

日本銀行紙幣を受け取らず、取引せず

日本人と共同せず、日本人に雇われず

日本新聞に広告せず、中国紙に日貨の広告を載せず

日本人と応対せず

以上の規定に違反する者は、
まず、反日救国会に懲戒委員会を設置する

違反者の罪重き者は漢奸として極刑に処す

懲戒は、貨物没収、財産没収、拘禁の上曝す、町を引き回す、漢奸服・三角帽の着用、罪名を記した布を胸に付ける

を決定し、日貨検査隊が組織され、日貨を扱った中国商人は容赦なく処罰された[7]

上海日本商工会議所は幣原喜重郎外相に抗議電報を送り、10月7日、重光葵公使は国民政府に抗議文を手交したが、排日貨運動は継続し日貨の輸入は激減した[8]。在華紡ではストライキでしばしば操業が停止し、1931年末には在華紡の工場の約9割が閉鎖され、内外綿の工場と社宅が群衆に包囲され、海軍陸戦隊と工部局巡警が出動する事件も発生した[8]。日本政府は、居留民に引き揚げを勧告し、婦女子など一時帰国者が増加した[8]日本商工会議所は幣原外相に抗議し、居留民団は日本人倶楽部や日本人学校でたびたび抗議大会を開催した[8]
『民國日報』不敬記事事件

1932年1月8日に東京で朝鮮人李奉昌が天皇を暗殺しようとした桜田門事件に関し、1月9日、上海の国民党機関誌『民国日報(中国語版)』は「不幸にして僅かに副車を炸く」と報道した[9]。日本人居留民は憤慨し、上海総領事村井倉松は記事について上海市長呉鉄城に抗議した[10]
日本人僧侶襲撃事件「昭和七年一月二十日日本人青年會々員三十名に襲撃された三友實業社(中国語版)」詳細は「上海日本人僧侶襲撃事件」を参照

1月18日午後4時頃、托鉢寒行で楊樹浦を回っていた日蓮宗系の日本山妙法寺上海布教主任天崎啓昇と水上秀雄の僧侶2名と信徒3名(後藤芳平、黒岩浅次郎、藤村国吉)の計5名の日本人が三友實業社(中国語版)タオル工場附近の馬玉山路で50-60名の中国人により襲撃され、水上が租界内の外国人経営病院に収容された後24日に死亡、天崎は全治6ヶ月、後藤は全治1年の重傷を負った[11]。日本の外務省調書によると、300人以上が襲撃に参加したという[12]。18日、村井倉松上海総領事から呉鉄城上海市長に対し謝罪要求などがなされ、27日に最後通牒が出され、28日に日本側の要求が承認された[13]

当時の上海公使館附陸軍武官補田中隆吉(当時は少佐、最終階級は少将)は、1931年10月初頭、板垣征四郎大佐に列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすよう依頼され、その計画に従って自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた、と1956年になって証言した[14][15][注釈 1]
三友實業社襲撃事件「三友社事件の遭難者簗瀬松十郎」「不敬事件により閉鎖されたる民國日報館(中国語版)」

1月19日から20日にかけての深夜、僧侶たちを殴打した職工たちの会社であり、抗日運動の拠点として知られていた三友實業社タオル工場の物置小屋に、日本青年同志会の32人が放火し、その帰路、1月20日未明、東華紡績付近で共同租界工部局警察の中国人巡警2名の誰何を受けると、巡警2名を威嚇して交番まで追跡し、臨青路付近で応援の中国人巡警2名と乱闘になった。青年同志会の柳瀬松十郎が射殺され、北辻卓爾と森正信が重傷、一方の巡警は1名が斬殺され、1名が重傷を負った[17]

1月20日、『民國日報』は、三友実業社タオル工場襲撃を日本海軍陸戦隊が支援したという根拠の無い報道をした[15]第一遣外艦隊司令官塩沢幸一少将と『民國日報』との間の論争で、工部局は「1月9日の民国日報の不敬記事及同月18日の日蓮宗僧侶等に対する抗日会の暴行事件に付いても、工部局は、民国日報の閉鎖、抗日会の解散を決議」し[2]、26日に『民国日報』は、会社の自発的閉鎖を決定した[15]。同日午後、日本人居留民は、日本人倶楽部で大会を開き、日本人僧侶襲撃と新聞報道に対する憤りを表明し、大会参加者の約半数が日本総領事館と海軍陸戦隊司令部に行進した[15]

1月21日、村井総領事は呉市長に対し僧侶殺害に関し、1. 市長による公式謝罪、2. 襲撃者の逮捕と処罰、3. 負傷者と死亡した僧侶の家族に対する治療費の保障と賠償、4. 全ての反日組織の即時解散、の四項目を要求した[15]。1月22日、日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、925名の陸戦隊員を上海に派遣して、村井総領事と呉市長の交渉を有利にすすめようとした[15]

1月27日、呉市長は最初の3項目を受諾したが、第四項に関しては政府と相談するため30日までの公式回答の猶予を要請した[15]。村井総領事は、海軍に押され、28日午後6時までに満足のいく回答が得られない場合、必要と考えられる手段を行使する、と通告した[18]。1月28日午後3時、呉市長は全ての要求を受諾した。しかし、上海の日本人居留民は満足せず、完全な興奮状態にあり[18]、中国人も「支那の回答遷延中民情は日に日に悪化し、呉市長が日本の要求を容れたることを聞くや之を憤慨したる多数の学生等は大挙して市役所を襲ひて暴行し、公安隊の巡警は逃亡するの有様にて、支那の避難民は続々として我居留地に入り来り、物情騒然たる」[2]という状況であったという。


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