第一次ブルガリア帝国
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9世紀から10世紀の間、最盛期のブルガリアはドナウ大曲から黒海、そしてドニエプル川からアドリア海へと拡大し、東ローマ帝国と競合する当地域の重要な勢力となった[9]。第一次ブルガリア帝国は中世の大部分を通じて、南スラヴ・ヨーロッパの主要な文化的かつ精神的な中心地となった。

帝国がバルカン半島にてその地位を固めると、東ローマ帝国と時には友好的に、時には敵対的になった、何世紀にも及ぶ長い交流の時代に入った。ブルガリアは東ローマ帝国にとって北方の最重要敵対国として現れ、ブルガリア・東ローマ戦争につながった。両大国は平和と同盟の時代も享受し、なかでも注目すべきはブルガリア軍が包囲網を破ってウマイヤ朝の軍隊を打ち破ったコンスタンティノープル包囲戦であり、結果として東南ヨーロッパへのアラブ人侵攻を阻止した。東ローマの帝都コンスタンティノープルはブルガリア側に強い文化的影響を与え、864年には最終的なブルガリアのキリスト教化(英語版)をももたらした。アヴァール崩壊後のブルガリアは、北西のパンノニア平原へとその領土を広げた。その後はペチェネグクマン人の進攻と対決し、マジャルに決定的勝利を収めて彼らをパンノニアに永久的に定住させた。

帝国において権力の座にあったブルガール人とその他のスラヴ民族(トラキア人)は次第に混血し、広まっている古代教会スラヴ語(古代ブルガリア語)を導入したことで、7世紀から10世紀にかけ徐々にブルガリア人国家を形成した。10世紀以降にはブルガリア人(Bulgarian)という住民の呼称が流行し、文献と庶民の言葉遣いの両面における地元民にとって不変の名称となった。古代教会スラヴ語の識字率向上は、近隣文化への南スラヴ人の同化を防ぐ効果を有した一方、確かなブルガリア人のアイデンティティ形成を促した。

キリスト教導入後、ブルガリアはスラヴ・ヨーロッパの文化的中枢となった。その一流の文化的地位はグラゴル文字の導入に伴ってさらに強化され、都のプレスラフ(英語版)におけるその直後の初期キリル文字(英語版)の発明と、古ブルガリア語にて制作された文学は間もなく北方へ広がり始めた。古ブルガリア語は東ヨーロッパの大部分のリングワ・フランカとなり、古代教会スラヴ語として知られるようになった。927年には、完全に独立したブルガリア総主教座が公式に認められた。

9世紀末から10世紀初頭の間、シメオン1世は東ローマに対する一連の勝利を達成した。その後彼は皇帝の称号を認められ、最大限にまで自国の拡大を進めた。917年アケロオスの戦いにて東ローマ軍を殲滅した後、ブルガリア軍は923年924年にコンスタンティノープルを包囲した。東ローマ側は最終的に回復し、1014年に「ブルガリア人殺し」バシレイオス2世の下、クレディオンの戦いでブルガリア人に完敗を負わせた。1018年までには最後のブルガリア人の拠点が東ローマ帝国に降伏し、第一次ブルガリア帝国は滅亡した。
歴史「ブルガリア・東ローマ戦争」も参照

ブルガリア帝国の歴史は、講和と戦乱を長きにわたり繰り返したブルガリア・東ローマ戦争とほとんどの時期にて重なり、その初期はブルガリア独自の神々を信仰していたことによる宗教的対立という側面があった[10]。ブルガリア人の起源、トルコ系ブルガール人は7世紀にドナウ川以南とバルカン山脈の間のドナウ盆地に定住し、スラヴ人と混血してプリスカを都に第一次ブルガリア帝国を築いた[10]
建国と安定化アスパルフによる建国当初のブルガリア帝国領(黄色)とテルヴェルによる領土拡大(橙色)

5世紀末から6世紀初頭にかけてバルカン半島に到来したスラヴ人諸族は6世紀後半にブルガリア地域に定住し始め、ブルガリア原住民として知られるトラキア人と徐々に混血していった[11]。7世紀末ごろになるとスラヴ人諸族は、東ローマ帝国による同化政策とアヴァールの侵入という危機の板挟みに遭うようになり、これを受けてバルカン半島の7つの諸族(Seven Slavic tribes)とセヴェリ族(英語版)は軍事連合を発足させた[12]。建国者アスパルフらブルガール人も同時期に小スキタイ(英語版)に侵入しており、東ローマ皇帝コンスタンティノス4世は、ブルガールとスラヴが同盟を組む可能性を恐れ、680年に陸軍をスラヴ人に差し向け、皇帝自らが率いるドナウ川の水軍はブルガール人の地に進軍した[12]。ブルガール人らはオングロスの要塞に数日間籠城したところ、東ローマ軍は皇帝が足の痛みを訴えたことで退陣したため、これを追撃したブルガール人は大勝利を収めた(オングロスの戦い)[12]。第一次ブルガリア帝国の建国は、ブルガール人がこれを機にドナウ川を越えてヴァルナまで到達し、バルカンの北東部を占拠したこと、そしてその近辺に居住していたスラヴ人らが彼らと軍事協定を結んだことが起源である[13]。アスパルフを頂点とするブルガール人が支配者層に立った一方、スラヴ人諸族も体制内で独自性を維持していた国家連合であった[13]。少数派で文化も遅れがちだったブルガール人は後にスラヴ人と同化し、8世紀以降には同一の文化を持つブルガリア人となったが、主要な言語はスラヴ語であった[14]。翌681年の夏、東ローマはブルガリアと講和条約を結び、アスパルフに毎年貢納することが取り決められたことで、ブルガール人国家は法的にも認められた[13]685年には、アヴァール支配を逃れたティモク川(英語版)のスラヴ人もブルガリアに合流した[13]

アスパルフの死後はその息子テルヴェル(英語版)(在位:700?721年)が君主となり、彼は705年に東ローマ皇位を追われていたユスティニアノス2世の復権を後押ししたことで、「カエサル」の称号と北トラキア(英語版)のザゴリア(英語版)を与えられた[15]。しかし708年、ユスティニアノスはブルガリアとの友好関係を捨ててアンキアロスの戦い(英語版)に挑み、敗北した[15]。テルヴェルはその後、711年716年の2度に及びトラキアを通過してコンスタンティノープルにまで進軍させ、テオドシオス3世と東ローマ・ブルガリア条約(英語版)を結び国境を画定させた[15]。これによってトラキア北部がブルガリア側に割譲されたほか、経済的な取極もその条項に含まれた[16]。続く717年のコンスタンティノープル包囲戦では、ブルガリアは東ローマから莫大な報酬を得ることで同盟を組み、テルヴェル指揮の下にウマイヤ朝の攻勢を撃退した[17]
内情不安と生存競争

セヴァル(英語版)(在位:738?753年)の死とともにドゥロ家(英語版)は滅亡し、ブルガリアは国が破滅の淵にある長い政治的危機に陥った。15年の間に7人の君主が治めたが、その全員が殺害された。この時代の残存史料は東ローマのもののみであり、ブルガリアにおけるその後の政情不安を東ローマ側の視点のみから示す[18]。それらの史料は、755年まで支配的であった東ローマとの平和的関係を求める派閥と好戦的な派閥が権力闘争をしていると記す[18]。史料は東ローマとの関係をこの内部抗争の主要な問題として示し、ブルガリアの支配者層にとってより重要であった可能性のある他の理由には触れていない[18]


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