バーブルは一時ラホールまで進撃したが、要請者一派がイブラーヒームとの争いで逃亡したため、いったん引き返した[2]。 1525年11月、バーブル軍は12,000という兵力でインダス川を渡河し、一方でイブラーヒーム・ローディーは、10万の兵と1,000頭の戦象を率いて迎撃に向かい(実数はこれより少なかったともいわれるが、バーブルよりは多かったという以外は不明である)、4月にパーニーパットで対峙した[4]。 バーブルは自軍の一部を民家の多いパーニーパットに置く一方、木の枝で覆い隠した壕で自軍を保護し、実数が悟られないようにさした[4]。また、自軍の前面に多数の荷車を縛り付けて並べた「防壁」をつくり、荷車の間ごとについたてを作って鉄砲や大砲を発砲できるようにした[4]。 バーブル軍とロディー軍は1週間ほど小競り合いをしたが、4月21日の夜明けに勝負をつけようと前進するローディー軍はバーブル軍の布陣の固さに攻めあぐねて躊躇した[4]。このすきをのがさず、バーブル軍はローディー軍を側面と背後から攻撃し、前面からは鉄砲や大砲といった火器で有効に射撃を行なった[4]。 イブラーヒームは戦象を使うこともできず、崩れつつある自軍をかろうじて支える彼の周りを固めていたわずかな兵士とともに勇敢に戦ったが敗れ、16,000人以上がこの戦闘で殺されたと推定される[5][4]。戦いは正午までに決着がつき、バーブルのもとにはイブラーヒームの首が届けられた[5]。 この戦いの勝利によって、ローディー朝は滅亡し、バーブルを祖とするムガル帝国が創始された。その後、バーブルはアーグラとデリーの両都市に入城し、その周辺地域の支配を固めた。 しかし、バーブルはメーワール王国のラーナー・サンガやその他多くの諸勢力と戦わなければならず、帝国は安定していなかった。 典拠管理データベース: 国立図書館
戦闘
その後
脚注[脚注の使い方]^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p146
^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p163
^ a b c d e f 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p147
^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p168
参考文献
小谷汪之編 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年
フランシス・ロビンソン著、小名康之監修・月森左知訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』創元社、2009年
関連項目
第二次パーニーパットの戦い
第三次パーニーパットの戦い
⇒イスラエル
アメリカ