アメリカ合衆国が通行料を要求どおり支払わないため、バルバリア諸国と呼ばれたトリポリ、チュニス、アルジェのパシャ達は、アメリカ合衆国政府に対し、これまで滞納していた通行料の一括払いと年間の通行料の速やかな支払いを公式に連名で要求してきた。しかし、アメリカ合衆国政府は国家の方針として通行料の支払い拒否を打ち出していたことから、これを拒否し、実質的な海賊の懐に資金が流れるのを良しとしないアメリカ合衆国の海運業者はこれに協力しようとしなかった。
このような経過でアメリカ合衆国政府は、通行料支払拒否の平和的解決のためにウィリアム・ベインブリッジを交渉に向かわせた。しかし、バルバリア諸国のパシャ達は納得しなかった。なお、このときベインブリッジは、最初に寄港したオスマン帝国の首都であるイスタンブールでトリポリへ行くよう指示され、トリポリ入港にあたってオスマン帝国の国旗を掲げて入港させられるという屈辱を味わっている。
この反応に危機的なものを感じ取ったアメリカ合衆国は、艦隊を組織して地中海に派遣した。
この間も地中海を通過するアメリカ合衆国船籍の商船は、バルバリア諸国の配下にあったバルバリア海賊に襲われ続け、抑留された捕虜に対するアメリカ合衆国からの身代金の支払いも滞ると見るや、違約金代わりにキリスト教徒の捕虜を奴隷として転売する姿勢を見せ始めた。
経過
開戦(英語版)が在トリポリアメリカ合衆国領事館の星条旗を旗竿から切り落とすという暴挙に出たため、国旗に対する公式な侮辱であると受け取ったアメリカ合衆国との間で緊張状態になった。
このような中、6月1日、アメリカ海軍のリチャード・デイル率いるプレジデント、フィラデルフィア、エセックス及びエンタープライズからなる、先述の艦隊がジブラルタルに到着している。
6月14日、トリポリ側がアメリカ合衆国に対して開戦を通知したため、正式に戦争状態に突入した。
このとき、派遣されたアメリカ海軍の艦隊は、トリポリ側が約2万5000名の兵員と24隻の戦闘艦を擁していることから正面攻撃を行うわけにもいかず、遠巻きにトリポリに対する海上封鎖を行い、地中海を通過するアメリカ合衆国船籍の商船の護衛を行っている。
1801年8月1日の海戦詳細は「1801年8月1日の海戦」を参照トリポリの海賊と戦うエンタープライズ
1801年8月1日、物資調達のためにアメリカ海軍の戦隊を離れて単独行動を行っていたアンドリュー・スターレットの指揮するアメリカ海軍のエンタープライズとトリポリ側のポラッカとの間で最初の戦闘が発生した。
このときは、アメリカ海軍が一方的に攻撃してトリポリ側のポラッカを戦闘不能に陥れ、戦利品としての確保の命令を受けていなかったアメリカ海軍のスターレットは武装解除の上で釈放している。アメリカ海軍のスターレットは釈放に際し、マストを切り倒して航行できなくしたため、トリポリ側のポラッカは帆によって帰還することができなくなった。
なお、戦いで大破し、釈放されたトリポリ側のポラッカは、やっとのことでトリポリへ帰り着いたが、それを待っていたのは当時のトリポリの支配者であったユスフ・カラマンリによる激しい非難であり、この戦いにおいてトリポリ側のポラッカの指揮官であったレイス・マホメット・ラウスは、指揮権を剥奪された上、雄ロバに後ろ向きに座らされ、羊の腸を巻かれて通りを引き回された後、足の裏を500回叩かれるという厳罰に処せられている。 1803年10月3日、アメリカ海軍は艦隊司令官をエドワード・プレブルに代え、コンスティチューションを旗艦とする増援艦隊を派遣した。1801年8月1日の戦闘以来、小競り合いはあったものの、大きな戦闘は発生していなかった。 プレブルは、シチリア島のシラクサに艦隊の根拠地を構え、指揮を執ることとした。 しかし、作戦行動を計画中の1803年10月31日、派遣艦隊の中核的存在であったフィラデルフィアがトリポリ側の小型艦を深追いして座礁し、干潮の時間帯と重なって離礁できなくなってトリポリ側の砲艦に拿捕され、ウィリアム・ベインブリッジ艦長以下乗組員307名がトリポリ側の捕虜になる事件が発生した。 この事態を重く見たプレブルは、捕虜になったベインブリッジからの手紙での提案もあって、拿捕されたフィラデルフィアがトリポリ側の手によって戦力化されるのを防ぐため、事前の会議でフィラデルフィアの破壊作戦への従事を志願していたスティーブン・ディケーターに対してフィラデルフィアの破壊を命令した。 命令を受けたディケーターは、イントレピッド
トリポリ港の戦い詳細は「トリポリ港の戦い」を参照
フィラデルフィア拿捕事件
なお、当時トゥーロン港の海上封鎖作戦に従事していたホレーショ・ネルソンは、この作戦の成功を見て、「当代で最も大胆かつ勇敢な行為である」と賞賛している。
イントレピッド特攻イントレピッド爆沈の図
フィラデルフィアを処分し、後顧の憂いを断ち切ったアメリカ海軍は、本格的な作戦行動を開始することになった。
フィラデルフィアの一件でトリポリ沖の浅瀬における行動が、大型艦にとって危険なことは明らかになっていたので、アメリカ海軍のプレブルは、当時のシチリア国王フェルディナンド3世に砲艦6隻とボムケッチ2隻を借り受けて戦力を整え、1804年8月に入ってから複数回にわたってトリポリの市街と要塞に対する艦砲射撃を試みている。特に1804年8月3日の艦砲射撃では、応戦するために出てきたトリポリ側の艦隊との海戦が発生し、トリポリ側の砲艦が撃沈されている。
しかし、陸上への効果的な砲撃ができる艦艇の絶対数が不足していたため、トリポリの市街と要塞に効果的なダメージを与えられず、この後に行われた身代金4万ドルと引き換えに捕虜となったフィラデルフィアの乗組員の解放を要求する交渉は、不調に終わっている。このとき、ユスフ・カラマンリは身代金として20万ドルを要求している。
このような状況を見たアメリカ海軍のプレブルは、次の策として、イントレピッドに大量の爆薬を載せ、決死隊の操船によってトリポリ側の泊地に侵入、爆発させて敵艦を一網打尽にする作戦を9月4日に実施したものの、フィラデルフィアの一件で警戒を厳重にしていたトリポリ側に発見され、要塞砲の攻撃によって載せていた爆薬が爆発し、艦長以下乗組員12名全員が戦死している。
作戦方針の転換(英語版)率いるアメリカ海軍の増援艦隊がシラクサに到着し、艦隊司令官がエドワード・プレブルからサミュエル・バロンに代わっている。バロンは、これまでの状況から、以前の遠巻きの海上封鎖に作戦の方針を変更している。
海上封鎖によってトリポリ側の根拠地の制圧を試みたトリポリ港の戦いでの作戦行動は、艦艇の絶対数が足りず、トリポリ側の要塞砲とトリポリ沖の浅瀬に阻まれて徹底した攻撃ができなかったため、フリゲートを失うなどの損害の割には、成果の少ないものになっていた。
また、以前からトリポリ側の支配者階級における不和に目をつけていた、前在チュニス・アメリカ合衆国領事でアメリカ陸軍のウィリアム・イートン(英語版)将軍は、より直接的な解決のため、艦隊に同行していたアメリカ海兵隊の分遣隊を陸路で派遣してトリポリ側の根拠地を占領する外、前のパシャで弟のユサフ・カラマンリに地位を乗っ取られ、エジプトに亡命していたハメット・カラマンリ(Hamet Karamanli)を担ぎ出し、政権転覆を画策する作戦を提案している。
このときイートン将軍は、100名程度のアメリカ海兵隊の派遣を派遣艦隊の司令官サミュエル・バロン(英語版)に要求したが、7名しか派遣が認められなかった。 1804年11月、アメリカ海軍のバロンの命令によって派遣されたプレスリー・オバノンを隊長とする7名のアメリカ海兵隊の分遣隊は、イートン将軍とともにエジプトの港町であるアレクサンドリアに上陸した。アメリカ海兵隊は、ハメット・カラマンリを探し出し、ハメット・カラマンリの人望とアメリカ海兵隊の努力により、約500名のキリスト教徒及びイスラム教徒による傭兵隊を組織することができた。 1805年4月27日、45日間にわたる行軍の末、トリポリ側の根拠地であるダーネ(Derne)に到達したアメリカ海兵隊は、傭兵隊とともに攻撃を開始した。
ダーネの戦いダーネの街を攻撃するアメリカ海兵隊と傭兵詳細は「ダーネの戦い」を参照
戦力整備
ダーネの戦い