第一次バルカン戦争
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ニコラ1世
ダニロ皇太子
ミタル・マトリノヴィッチ
ヤンコ・ヴコティッチ
ラドミル・プトニク
ペータル・ボヨヴィッチ
ステパ・ステパノヴィッチ
ボジダル・ヤンコヴィッチ
戦力
当初336,742人[1]ブルガリア 370,000人
セルビア 220,000人
ギリシャ115,000人
モンテネグロ 44,000人

第一次バルカン戦争(だいいちじバルカンせんそう)は、1912年10月から1913年5月まで行われた、オスマン帝国に対するバルカン同盟セルビアモンテネグロギリシャブルガリア)の戦争である。バルカン連合軍は、兵員数ででも戦略的にも劣勢なオスマン軍に勝利し、迅速な成功を成し遂げた。戦争の結果、欧州に残るオスマン帝国の領地は殆ど連合軍の手中に収められた。続いてアルバニアの独立にも結び付いた。成功にもかかわらずブルガリアは和平とオスマンの脅威が去ったことで不満を持ち、まもなく第二次バルカン戦争を始め、今度は第一次バルカン戦争の連合軍と闘うことになった。
背景イングランドの地図製作者エドワード=スタンフォードによるバルカン半島の民族構成地図

バルカン諸国はオスマン帝国支配下のルメリア(いわゆる東ルメリ自治州)、トラキアマケドニアをめぐって緊張関係にあったが、19世紀半ば以降に列強が介入したため、いくぶん緊張は和らいでいた。列強はこれらの地域に対し、キリスト教徒多数派を保護し現状を維持しようとしていたのである。1867年までにセルビアモンテネグロは事実上独立しており、1878年のベルリン条約でその独立が確認された。1908年7月に青年トルコ革命が発生し、青年トルコ党がスルタンに対して停止中の憲法を復活するよう要求すると、オスマン帝国の支配力には疑問が持たれるようになった。

セルビアはボスニア・ヘルツェゴビナに対して領土的な野心を持っていた。ところが1908年10月のボスニア危機でオーストリアがこの地域を正式に領土に組み込んだ。このため、セルビアの野心は阻止されることとなった。そのためセルビアはこの時期、南方に拡大しようと考えた。一方青年トルコ党は、オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナの併合後、ボスニアのムスリムをオスマン帝国に移住させようとした。オスマン当局により移住の適地としてムスリムが少ない北マケドニアが選ばれたが、この選択こそが帝国に破滅をもたらした。移住者たちはその地域に住んでいたアルバニア人ムスリムとたやすく融合した。1912年春にアルバニア人たちが反乱を起こすが、その前後の暴動にボスニアからの移住者たちも参加した。政府軍のアルバニア人たちの中からも反乱に荷担するものが出た。

1912年5月、アルバニア人騎兵部隊(ハミディ)の反乱軍が、元スルタンのアブデュルハミト2世を復位させようとして、青年トルコ党軍をスコピエから追放し、南方マナスティル(現在のビトラ)まで進出した。彼らに対し青年トルコ党は1912年6月、広大な地域への影響力ある自治を認めざるを得なかった。セルビアはアルバニアのカトリックやハミディの反乱を軍事的に援助し、主立ったリーダーたちには秘密裏にエージェントを送り、この反乱を戦争の口実にした。セルビア、モンテネグロ、ギリシア、ブルガリアは、すべて、1912年のアルバニア人反乱が起こるよりも前からオスマン帝国に対する攻撃の可能性について議論していた。そしてセルビアとモンテネグロの公的な合意は3月7日に調印されていた。1912年10月18日、セルビアのペータル1世は宣言を発した。「セルビアの人々へ」と題した宣言は、セルビア人と同様にアルバニア人を支援するということを宣言していた:トルコ政府は、自国の市民に対する義務について何ら関心がないことを明らかにしたうえ、どんな不満や提案に対しても聞く耳を持とうとはしない。事態は収拾がつかなくなっており、だれもがヨーロッパにおけるトルコの状況に満足していない。それはセルビア人にもギリシア人にも、そしてアルバニア人にとっても耐えがたいことになっている。よって、偉大なる神の名において、私は我が勇気ある軍隊に、我々の同胞を解放しよりよい未来を保証するよう命じた。かつてのセルビアにおいて、私の軍隊はキリスト教徒のセルビア人だけではなくムスリムのセルビア人とも出会うだろう。


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