時1996年11月 - 1997年5月17日
場所ザイール(コンゴ民主共和国)
結果コンゴ・ザイール解放民主勢力連合の勝利。モブツ・セセ・セコ大統領の亡命
衝突した勢力
ザイール
ルワンダ解放軍
インテラハムウェ
アンゴラ全面独立民族同盟[1] コンゴ・ザイール解放民主勢力連合
ルワンダ
ウガンダ
アンゴラ [2]
ブルンジ [2]
指揮官
モブツ・セセ・セコ ローラン・カビラ
ポール・カガメ
ヨウェリ・ムセベニ
戦力
民間人:死者250,000[5] ? 800,000
難民:死者20万以上[6]、行方不明者22万2千[7]
第一次コンゴ戦争(だいいちじコンゴせんそう、フランス語: Premiere Guerre du Congo、英語: First Congo War)は、ザイールで1996年11月から1997年5月にかけて行われた戦争。
ザイールを32年間に渡り統治したモブツ・セセ・セコ政権が打倒され、ザイールはコンゴ民主共和国として再編された。戦争自体はザイールの国内情勢から生じたものであったが、実際には隣国のルワンダで、ルワンダ虐殺に端を発した大湖地域の難民危機(英語版)と密接にリンクしたものであった。
それぞれの思惑からルワンダ・ウガンダ・アンゴラ・ブルンジなど周辺諸国が介入し、特にルワンダは反モブツ勢力に対して工作を行うなど積極的に関与した[8]。 ンバンディ族
背景
失政
冷戦終結と共にアフリカの指導者の交代を望んだアメリカ合衆国は支援を打ち切り[10]、またアフリカに広がった民主化の流れは、内外からの圧力としてザイールにも及んだ。モブツは一党独裁制の終了を公約としたものの大規模な改革は望まず、内外の支持者の離反を招くことになった。ザイールは衰退を続け、経済システムへの不信から国民は闇経済に依存して生計を立てる有様であった[11]。 そのうえ、ザイール軍(FAZ:Forces Armees Zairoises)は、組織維持のために国民を敵とせざるを得ない状況に追い込まれていた[12]。
中央政府は弱体化し、モブツ政権に対する内部からの抵抗もあって反政府主義者はキンシャサからは距離のあるザイール東部で、勢力確立が可能となっていた。パトリス・ルムンバを支持していた左翼勢力を含む反政府主義者はまた、キンシャサからの支配に抵抗する民族的・地域的少数者でもあった。最終的にこの戦争に勝利したカタンガ州出身のルバ族であるローラン・カビラもまた、その一人であった[13]。他国の支援もあって東部における反政府運動は、モブツ政権による統制がもはや不可能となりつつあった。 東部の民族間の緊張は、数世紀にわたって続いていた(特に、土着の農耕民族とルワンダから度々移住する半遊牧のツチとの間のものが知られている[14])。加えて、ツチの一部は東部の原住民でもあり、コンゴ自由国設立以前の1880年代には既に移住していたが、さらにベルギーの植民地となった1908年以降、労働者として強制移住の対象ともなっていた。これに加えて、1959年に万聖節の騒乱
民族間の緊張
1965年のモブツ政権樹立後、少数民族であるバニャムレンゲを優遇することでより多数派の民族による反政府活動を抑え、東部支配の礎とすることをもくろんだ[17]。これは民族間の緊張を悪化させるものであり、様々な機会にそれは露呈していた。1963年から1966年にかけて、北キヴ州でフンデ語(英語版)及びナンデ語を使用する複数の民族がルワンダから流入したフツ・ツチの双方と戦ったルワンダ人戦争(英語: Kanyarwandan war[18])でいくつかの虐殺が発生した[19]。
1981年には市民権の制限が行われ、バニャムレンゲ及びバニャルワンダの市民権と全ての参政権が抹消された[20]。
ルワンダ紛争詳細は「ルワンダ紛争」および「大統領特殊師団」を参照
政治的な排除と民族間の暴力により、1991年初頭にバニャムレンゲはウガンダを拠点とするツチを中心とした反政府組織ルワンダ愛国戦線との連携を構築した[21]。1993年から1996年にかけては、フンデ、ナンデ、ニャンガ(英語版)の若者がバニャムレンゲを襲撃することが常態となり、14,000人が死亡していた[22]。1995年ザイール国会は、バニャムレンゲを含むルワンダ及びブルンジにルーツを持つ全ての人々の送還を決定した[23]。