師匠である鶴瓶は笑瓶の死去当日に事務所を通じ「師弟関係を結んだのは僕が29歳で笑瓶が24歳。師弟関係というよりも、信頼のおける親友のようでした。一番僕のそばにいて、全ての事に気のつく男ですごく彼がいて助かりました。僕より先に逝くとは思いませんでした。 すごくええ顔して旅立って行きました。 最期に顔見れてよかったです。お疲れ様でした。」と追悼のコメントを出した[14]。その後、鶴瓶は同月25日にトークイベントの会場入りの前にメディアの取材に応じ、当日は笑瓶の危篤の報を聞いて病院に駆け付け、意識のない状態であったが対面を果たしたことを明かし、愛弟子の最期の様子を語った[15]。また、BS-TBS『噂の!東京マガジン』で共演していた森本毅郎によれば「倒れたときに、まだ意識があるときに、苦しかったと思うけれども“前のときよりも、今回ちょっと場所が違う”と。“今回はちょっと危ないかもしれない”ってご本人が言ったっていう話を聞いたんですよ。」と関係者からの話を明かした[16]。
翌日の2月26日放送の『噂の!東京マガジン』では、予定を急遽変更し追悼企画「笑瓶さん!ありがとう笑顔と優しさの全記録」を放送。集まれるレギュラーメンバーだけでもと声が掛かり、全員集まった。放送では、突然空席になってしまった笑瓶の席に涙し、在りし日のVTRを観ながら思い出をメンバーらが語った[17]。
葬儀は妻を喪主として同月27日に築地本願寺第二伝道会館で執り行われ[18]、通夜・告別式には師匠の鶴瓶や森本毅郎、小島奈津子、井崎脩五郎、清水国明、山口良一、風見しんご、深沢邦之ら『噂の!東京マガジン』共演者や山田邦子、西川きよし、せんだみつお、爆笑問題(太田光・田中裕二)、松村邦洋、松本明子、徳光和夫、モト冬樹らが参列、弔辞は鶴瓶が読んだ。
10月22日、天満天神繁昌亭で「笑福亭笑瓶追善公演 ?笑瓶 The DANKAI?」が催され、小佐田定雄が笑瓶のために書き下ろしたが生前演じられなかった新作落語「浪花の雪女」を弟子の笑助が初演。生前縁のある人物の座談会と、会場には数多くの眼鏡やタレントとして出演した番組の記念カップなどが飾られた。座談会出演者は笑助・小佐田・鶴瓶・笑福亭晃瓶・笑福亭恭瓶・松村邦洋(リモート)[19]。 17歳の頃に俳優を志す。当時人気のテレビドラマ「太陽にほえろ!」のファンであった事から、同ドラマに出演したいと思った笑瓶は番組側に「企画書」を書いて送付した事があるとトーク番組「ろみひー」で語っている(2000年9月5日放送分)。その企画書の内容は「ロス警察からサンフランシスコ警察を渡り歩き、日本へ帰ってきたヤリ手の麻薬捜査官、通称“サンフラン刑事”。 大阪弁を喋り、母親役にはミヤコ蝶々さんを希望します。こんな役が、今の太陽にほえろには必要ではないでしょうか?また、その役にピッタリなのは、僕(笑瓶)です!」というものであったが、番組側からの返答はなかった。笑瓶の企画書との関連は不明だが、後の「太陽にほえろ!」では「ミヤコ蝶々を叔母に持つ大阪弁を喋る刑事」という、笑瓶が企画書に書いたキャラクターとそっくりな刑事(通称「ボン」[注釈 1])が登場している。 笑瓶が弟子入りをした頃、鶴瓶は落語を殆どしておらず、専ら大阪でタレントとして活躍していた。鶴瓶は落語家としての活動が少ない自分が弟子をとる事には消極的であった。ところが松鶴(笑瓶の大師匠にあたる)から鶴瓶に対し、「(弟子志願に)来た奴はとれ!お前」「とれ!兎に角」[20][21]との話があった。当時の鶴瓶には松鶴の思いは「意味わかれへんかった」[22]が、その後各所で、上方落語家の人気者を育てる事[23]によって上方落語人気を高め、拡げ、それを全国にと思っていた[21]のではという意の発言をしている。たまたまその松鶴と鶴瓶のやり取りの後に、笑瓶は鶴瓶に弟子入り志願を行う形になった。その際、笑瓶は鶴瓶から「俺、ほとんど落語やれへんで」と言われたが、「いえ、僕も落語する気ないですから」と返したという。さらに鶴瓶より、ウチの嫁と師匠の松鶴に気に入られれば弟子入りを認めるという条件を出された。鶴瓶の妻にはすぐに認められた。その後に松鶴と引き合わされたが、その際、松鶴から「君は人を笑わせるのが好きか」と問われ「好きです」と即答したという。それをみて松鶴は鶴瓶に「この子も落語家や。この子に笑福亭の名前と、お前の字をあげなさい」[24]と、笑瓶に「こいつ(鶴瓶)の生き様を見習え」と話したとの事である[要出典]。 鼈甲色のプラスチックフレーム(セルロイド製)の眼鏡がトレードマーク[12]。髭を生やしていた時期もあった。 ラジオ番組『MBSヤングタウン』で5年間共演したスターダストレビューの根本要は、笑瓶が「人を笑わせるのが好きなんや。そこに偉いとか偉くないはなくて、誰でも笑っていれば楽しいねん」「偉い人になると笑いの質も変わるから、偉くなるよりも誰もが気楽に笑ってくれるようなポジションにいたいねん」といつも語っていたと述べている[25]。 事務所の後輩で、まだコントの役割分担が明確ではなかった頃のダチョウ倶楽部に対し、「ボケやったら竜ちゃんやな!」と助言し、芸風を確立させるきっかけを作った[26]。COWCOWの多田健二は笑瓶のモノマネをネタとしていたが、「自分がテレビ出ているみたいでうれしいわ」と声をかけてくれたと回想している[3]。 2000年代以降、師匠の鶴瓶が「六人の会」などの活動から落語に目覚め、一門で落語会なども開くようになったため、笑瓶自身もできない落語を勉強せざるを得なくなった。最近は一門の落語会や弟子の笑福亭笑助との親子会で口演したほか、天満天神繁昌亭の定席にも不定期で出演していた。 演目は自作の『横山大観』『ある日の六代目』『一日早い死神』『レトロミュージアム』など新作落語(私落語)のみで古典落語は口演していないが、『上方落語家名鑑ぷらす上方噺』制作時の取材に「(大師匠以来由緒のある)笑福亭という屋号の重さ、物語で笑いを届ける落語という話芸の素晴らしさを実感している」と答えている。 落語家名鑑として発行された『上方落語家名鑑ぷらす上方噺(2006年)』『上方落語家名鑑【第二版】(2010年)』(以上出版文化社)、『東西寄席演芸家名鑑(2015年)』(以上東京かわら版 出囃子は、自身のものまねレパートリーにちなんで「魔法使いサリー」[29]。 基本的に出オチ、もしくは話術で笑わせるネタが多い。特に、柳生博は甲高い声の持ち主であるにもかかわらず、笑瓶は低い声を強調する。
エピソード
デビュー前・学生時代
入門・内弟子時代
キャラクターと芸風
後輩芸人との関係
落語家として
ものまねレパートリー
意地悪ばあさん
アントン・ウィッキー
大川慶次郎
キダ・タロー
きよ彦
小金沢昇司
周富徳
鈴木雅之
玉置浩二
高倉健
畑正憲
ボヤッキー(ヤッターマン)
三木のり平
宮路年雄
柳生博
よし子(魔法使いサリー)
渡邉包夫
矢ガモ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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