生家は鉄工所を経営していた[9][7]。大阪市立田島中学校から大阪市立生野工業高等学校の定時制に進む[9][7][注釈 1]。その時期に古道具屋で購入した初代桂春団治のSPレコードを聴き、落語に関心を抱く[7][11][注釈 2]。SPレコードや書籍などを収集して落語をおぼえた[11]。
やがて人に聞かせる欲求が芽生え、朝日放送ラジオ『東西お笑い他流試合
』『素人演芸会』『素人落語ノド自慢』、新日本放送『素人名人会』などの素人参加番組に出演する[7][11]。その演技は『東西お笑い他流試合』のプロデューサーだった狛林利男から、欠員者の代替として出演を依頼されるほどになる[9][7][11]。それらの番組のやはり常連出場者だった前田達(のちの2代目桂枝雀)ら演芸好きの仲間と天狗連を結成し、自前の即席落語会や慰問上演などをおこなった[12][11]。前田が3代目桂米朝に弟子入りした(当時は桂小米)翌年の1962年3月中旬、素人参加番組の審査員だった6代目笑福亭松鶴に入門を懇願、4月1日に正式に弟子入りした[13][14](笑福亭鶴光、笑福亭鶴瓶は弟弟子。明石家さんまは従弟弟子に当たる)。松鶴を選んだ理由の一つは、松鶴に初代春団治の雰囲気を感じたことにあった[13][14]。松鶴はのちに、即刻入門を許可した弟子は初めてだったと述べている[13]。鉄工所は兄が継いでいたため親の反対はなく、実家の手伝いをすることのみを条件とされた(松鶴は弟子を同居させず「通い弟子」としたので、帰宅して仕事ができた)[14]。「仁鶴」という芸名は、入門からしばらく経ってから決まった[注釈 3]。この由来について、松鶴がタクシーで角を曲がる指示の言葉(「二番目の角」)から発案したという記述が書籍にも記載されているが[13]、仁鶴自身は2013年の聞き書きで「あれは冗談」と述べている[14]。
1962年12月の「三越落語会」が初舞台となる[15][16]。入門翌年の1963年から吉本興業に所属した[16][17]。これは、当時数少ない吉本所属の落語家だった3代目林家染丸が、演芸場の増加(なんば花月・京都花月がこの前後にオープン)に対応して落語家を増やしたい意向から勧誘したとされる[16][17]。染丸は松鶴に持ちかけ、松鶴の問いかけに仁鶴が同意した[17]。