笑ふ男
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スチュアート・ホームズ(英語版) ……ディリー・ムーア卿

サム・ド・グラス……ジェームズ2世

ジョージ・シーグマン……医師

ジョセフィーヌ・クロウェル……アン女王

製作

ユニバーサル・ピクチャーズはヴィクトル・ユーゴー原作の『ノートルダム・ド・パリ』(1923年)の映画化の成功を受けて、主演したロン・チェイニーの次回作を熱望した。『オペラ座の怪人』の映画化が提案されたが、ユニバーサルの重役たちが拒否。代わりにユーゴーの『笑う男』が持ち上がった。原作が出版されたのは1869年だがイギリスとフランスでは不評で成功しなかった[6]。とはいえ、1908年にフランスのパテで、1921年にオーストリアのOlympic-Film社で、二度映画化されていた[7]

チェイニーと契約したにもかかわらず、制作は始まらなかった。理由は、フランスのスタジオ Societe Generale des Filmsから映画権を取得できなかったからである。契約は変更され、代わりに作られたのが『オペラの怪人』(1925年)だった[8]。『オペラの怪人』成功の後、ユニバーサルの社長カール・レムリは再び『笑う男』の映画化に向けて動き始めた[9][10]。レムニは『裏町の怪老窟』が国際的に評価された[11]パウル・レニ監督をハリウッドに招き、まず『猫とカナリヤ』を撮らせた[12]。さらに、『裏町の怪老窟』でレニと組んだコンラート・ファイトをチャイニーの代わりに主演させることにした。ファイトは『カリガリ博士』に出演したことでも知られていた[13][14]。一方、デア役は『オペラの怪人』でチャイニーの相手役を務めたメアリー・フィルビンを起用した[5]

美術には『猫とカナリヤ』でレニと組んだチャールズ・D・ホール[14]。グウィンプレンのメイクを担当したのはジャック・ピアース[14]

ユニバーサルはこの映画に当時としては破格の100万ドル以上を投じた[15]
サウンド

サイレント映画の上映では通常、劇場で音楽の伴奏がつけられる。ピアノだけの場合もあるし、オーケストラの場合もあるし、劇場によってばらばらだった。フォトプレイヤーやシアターオルガン(英語版)が開発され、1900年から1930年にかけて劇場に設置され、ピアニストやオーケストラの仕事を奪っていったが、設置されていなかったり、水準に達しないところもあった[16]。1920年代後半になると、メジャーの映画会社は録音した音楽を映画とともに供給し、絵と音をシンクロさせることに方針を変えた[17]

『笑ふ男』はサイレント映画として公開されたが、最初の上映の成功を受けて、上映をいったん休止し、効果音と音楽、さらに主題歌も付けて改めて公開した[18]。それにはムービートーンのサウンド・オン・フィルム方式を使用した[19]。レニはホラー映画で使う悲鳴や軋む音を採用しなかった(後に遺作となる『The Last Warning』では使用した)。主題歌『When Love Comes Stealing』は、エルノ・ラペーがダグラス・フェアバンクスの『ロビン・フッド』(1922年)のために作ったインストゥルメンタル曲に、ウォルター・ハーシュとルー・ポラックが歌詞をつけたものである[20]。それ以外の曲はウィリアム・アクスト、サム・ペリー、それにラペーの曲[21]、および、後に『恐怖城』(1932年)で再使用されることになるGustav Borchの曲が使われた[22]
リリース


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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