2008年度、滋賀県は銃器による駆除を見合わせたが、その結果、生息数は竹生島で約6万羽、琵琶湖全体で7万5千羽に急増した。これにより、2009年には駆除の再開を余儀なくされた。以降は減少していき、2018年には竹生島で2千百羽、琵琶湖全体で6千6百羽にまで至った。一方、最大の生息地であった竹生島と伊崎半島以外の場所で生息羽数は増加しており、生息地の分散傾向が進んでいる[14]。 北側の対岸である葛籠尾崎の沿岸や竹生島との間には湖底遺跡(葛籠尾崎湖底遺跡)がある。最大で水深70mほどの湖底から、漁師の網に引っ掛かるなどして約140点もの土師器・須恵器や土器が、ほぼ原形をとどめたまま引き揚げられている。これらの製作年代は縄文時代早期から弥生時代、さらに中世まで幅広い時代に及ぶと考えられている。遺跡の形成過程については、津波などで集落が水没した、船が沈んだ、祭祀として沈められた、付近の山地の山崩れにより移動したなど諸説ある。水深や水流に阻まれて人間による潜水調査には限界があるため、ロボットによる探査が計画されている[15]。同様の遺跡は世界でも類例がなく、沈積原因は今なお大きな謎に包まれている[16]。 古来、信仰の対象となった島で神の棲む島とも言われ、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したのが竹生島信仰の始まりと伝わる[17]。南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺(西国三十三所三十番)がある。竹生島神社は、明治の神仏分離令に際して弁才天社から改称した。竹生島は神仏一体の聖地であったことから、分離の際には少なからず混乱があったようである。ちなみに、竹生島弁才天は江島神社 (神奈川県 江の島)・厳島神社 (広島県 厳島)と並んで日本三大弁天のひとつに数えられる。 戦国期には、近江国小谷城主であった浅井久政が、子の長政への家督委譲を目論む家臣団によって一時的にこの島に幽閉され、隠居生活を強要された。琵琶湖沿岸を本拠地とした織田信長が参詣したことが記録されているほか、宝厳寺は豊臣秀吉とのゆかりが深い。 近代には宗教家の大石凝真素美が琵琶湖の竹生島は人類発祥の地であると主張した(『大石凝真素美全集』1923年、国華社)。 多多美比古命(伊吹山の神)が、姪で浅井岳(現在の金糞岳)の神である浅井姫命と高さを競い、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を切り落とした。その首が琵琶湖に落ちて竹生島が生まれたという。金糞岳(標高1,317m)は滋賀県2位の高峰で、最高峰の伊吹山(標高1,377m)は、竹生島の高さを差し引くと本当は2番目だったというわけである。竹生島神社には浅井姫命も祀られている(詳細は近江国風土記#竹生島の伝承を参照)。 坂上田村麻呂伝説のうち坂上田村麻呂の東征譚をモチーフにした御伽草子『田村草子』では、琵琶湖の竹生島の弁財天は田村丸と契りを結んだ鈴鹿御前の化身とされる[18]。御伽草子『鈴鹿草子』でも鈴鹿御前は竹生島弁財天として再誕している[19]。 中世には竹生島は西日本の地震に関する聖地とされていた。『渓嵐拾葉集 竹生島は古くから信仰の対象とされた事から、能の演目や平曲や近世邦楽の楽曲でも取り上げられている。
湖底遺跡
歴史
竹生島に関する伝承
文化
芸能・音楽の空中写真を基に作成長浜市大浜から西望アオサギの群れ
能
『竹生島
平家琵琶(平曲)
『竹生島詣』
地歌・箏曲
『竹生島』(菊岡検校作曲、八重崎検校箏手付)
『竹生島』(山田流箏曲・千代田検校作曲)
一中節
『竹生島』(二世宇治倭文作曲)
長唄