竹島_(代表的なトピック)
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以降、竹島での漁猟は島根県の許可制となった[30]。なお、島根県制定の「竹島の日」はこの「島根県庶十一号」を発した日にちなんでいる[31]

これについては島根県告示のみで、国家として国際社会に伝わるような手続きをしていなかったが、告示内容の外国への通告は領土取得の絶対要件とは必ずしも考えられていない[33][注 5]

アシカは動物園やサーカス団などに高値で売れた[34]。1905年には島根県知事による視察、1906年3月の県部長らの調査、1905年5月の官有地としての土地台帳への記載がなされ、1905年4月の県令によるアシカ漁の許可制、同年6月5日の中井ら4名に対する免許、さらに免許者からの土地使用料国庫納入がなされた[33]。1905年、日本海海戦に際してコンクリート製の監視所がつくられたといわれている[34]

竹島での日本人の経済的な営みを記した記録に『竹島日誌』がある[34]。これは、隠岐郡五箇村の収入役であった八幡才太郎が60余年、ほぼ毎日書き綴った記録である[34]。この記録によれば、才太郎の弟の伊三郎はアワビの密集する瀬やワカメの生息地などを熟知しており、詳細な手書き地図を残している[34]。竹島のアワビについては、以下のような記録がある[34]。竹島のアワビは、古来より最高級と賞賛され、都への献上品として使われた隠岐産のものよりもっと肉が厚かった。収穫量は多い日で200貫(750kg)にもなった。畳一畳分の岩にアワビが重なり、更に重なり合う状態で、採っているうちに、小舟が沈みそうになり、終いには着ている服を脱ぎ捨て海に飛び込み、泳いで船を引っ張った。

漁業者としては、日本人だけでなく鬱陵島から出稼ぎにきた朝鮮人(当時朝鮮半島は日本統治下であった)の海女のすがたもあった[34]1935年の記録には給与150円とあり、男たちへの報酬が100円であったことを考慮すれば、かなりの高給であり、彼女たちの技量は高く評価されていたことがうかがえる[34]

1941年、竹島は帝国海軍の軍用地となり、管轄が島根県から舞鶴鎮守府に引き継がれたため、竹島のアシカ漁・アワビ漁は停止を余儀なくされた[34]。戦後は漁の再開を望む声が高まり、1951年、橋岡忠重は「竹島漁労権報告書」および「嘆願書」を島根県に提出した。1954年6月には島根県監視船「しまかぜ」が竹島視察をおこなった[34]
画像

朝鮮半島が日本の統治下であったときの竹島(1934年6月):竹島近景

竹島をルポ取材するために訪れた大阪朝日新聞の記者と竹島の漁民

岩礁の上に乗るニホンアシカ(1934年6月)

竹島でのアシカ漁(1934年6月):アシカは生け捕りにされて水族館やサーカス団に売られた

「メチのいた島」

2013年2月、隠岐の島町在住の元小学校教員がかつて竹島で漁業をなりわいとしていた町内の人びとから聞き書きした絵本が自費出版された[35]。竹島が豊かな漁場であったことや連れ帰ったアシカ(メチ)と島の子どもたちとのふれあいが描かれている[35]。その後この絵本は、2017年山陰中央新報社から出版された[36]
韓国による支配韓国が建設した東島の韓国警備隊宿泊施設韓国が建設した東島の停泊場に接岸する韓国警備艇韓国漁民が住む西島韓国の観光地となっている東島竹島で訓練する韓国の特殊部隊

竹島は日本が島根県へ編入した1905年以来、第二次世界大戦終結の1945年まで日本側が支配していたが、戦後、一時的に韓国の独島義勇守備隊と名乗る民兵組織が竹島に侵入した。独島義勇守備隊は近海の日本船舶を拿捕したり日本の海上保安庁巡視船へ機関銃を撃つなどした。その際、日本側は44人が死傷、3929人が韓国に強制連行された[37]。1950年6月8日独島現地で慶尚北道知事が参席するなか、1948年に独島爆撃事件で犠牲になった韓国漁民のための独島遭難漁民慰霊碑除幕式が挙行された。1953年4月からは韓国国家警察が竹島に常駐を開始した後は管理下となり、そのまま韓国が実効支配を続けている[38]。「実効支配」とは「主権が行使されている状態」のことであり、その点では韓国が竹島を支配していることになるが、日本側の資料によれば、国際法上は「領域主権が継続的かつ平穏に表示されている」という意味での実効支配が重視される[38]


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