竹島_(代表的なトピック)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

竹島では海蝕洞に生息していたが、明治大正年間に大量捕獲が行われ[26]、戦後の1950年代には50?60頭と少数の目撃例があり、韓国が竹島を実効支配して警備隊が常駐するようになり、1975年の目撃を最後に確証のある目撃例がなく、国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストでは「絶滅」と記載されている[27][注 4]気候変動環境汚染などの理由のほか、韓国によって竹島が要塞化されたことなども絶滅要因の一つとして指摘されている[28]。具体的には、1970年代の韓国紙は竹島駐在の「警備隊員たちの銃撃で絶種」と報道しており、世界自然保護基金(WWF)の1977年度報告書では韓国人研究者さえ「最上の保護策は警備隊の島からの撤収だ」と主張しているという[27]1976年には、東亜日報が、アシカの生殖器が韓国で人気の精力剤の材料だったため、乱獲によってアシカが絶滅の危機に瀕していることを報道している[29]
日本による過去の実効支配隠岐、松島(現、竹島)、竹島(現、鬱陵島)を描いた1724年の鳥取藩作成の地図

江戸時代の竹島は、江戸幕府公認の下で鬱陵島に渡る際の航行の目標ないし停泊地として利用されており、寛文5年以降は幕府の許可を得てアワビなどの好漁場としても活用していた[30]竹島の島根県編入の内務大臣訓令1935年、朝鮮半島が日本の統治下であったときの竹島の漁民と鬱陵島からの出稼ぎの海女

日本による竹島の明確な実効支配は、1903年隠岐島西郷町出身の中井養三郎が竹島に漁舎を建てて移住し、ここに人夫を移して、アシカやアワビ、ナマコワカメの漁獲を始めたことを端緒とする[31]1904年9月29日、アシカの絶滅を危惧した中井は申請書「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を日本政府に提出し、日本海の孤島・竹島の領土編入と貸下げを内務省、外務省、農商務省の3省に対し、願い出た[30][31]。朝鮮の文献等を調査した上で無主地であることを確認した日本政府は、1905年1月28日竹島を島根県隠岐島庁へ編入する閣議決定をし、内務大臣芳川顕正が「内務大臣訓令」として告示を発布した[31]。これにより、竹島は正式に日本の領土となり、実効支配がここに始まった。中井養三郎は、島を調査し、その特徴を説明し、また、自身の調査によれば誰にも所有されたことがなく、それゆえ今後はおおいに活用していきたい旨を申請書に記している[31]。告示は、一次一級史料としては「北緯37度9分30秒、東経131度55分にある無人島」と経緯度による位置と現況が明示されたものであった[31]

当時の島根県知事松永武吉はこれを受けて同年2月22日「島根県庶十一号」を発し、県に編入した[32]。以降、竹島での漁猟は島根県の許可制となった[30]。なお、島根県制定の「竹島の日」はこの「島根県庶十一号」を発した日にちなんでいる[31]

これについては島根県告示のみで、国家として国際社会に伝わるような手続きをしていなかったが、告示内容の外国への通告は領土取得の絶対要件とは必ずしも考えられていない[33][注 5]

アシカは動物園やサーカス団などに高値で売れた[34]。1905年には島根県知事による視察、1906年3月の県部長らの調査、1905年5月の官有地としての土地台帳への記載がなされ、1905年4月の県令によるアシカ漁の許可制、同年6月5日の中井ら4名に対する免許、さらに免許者からの土地使用料国庫納入がなされた[33]。1905年、日本海海戦に際してコンクリート製の監視所がつくられたといわれている[34]

竹島での日本人の経済的な営みを記した記録に『竹島日誌』がある[34]。これは、隠岐郡五箇村の収入役であった八幡才太郎が60余年、ほぼ毎日書き綴った記録である[34]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:311 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef