竹島_(代表的なトピック)
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8月20日:朝鮮山岳会[注 8]が竹島を調査(8月16日?8月28日)[121]。
9月16日:SCAPIN-1778 が発令、竹島を爆撃訓練場とし、日本の隠岐および本州西部沿岸住民への事前通知を条件とする。
1948年(昭和23年)
6月8日:米極東空軍の B-29が竹島を爆撃および機銃掃射し、韓国漁民の死者・行方不明者は14人、負傷者10人。
8月5日:南朝鮮の「憂国老人会(朝鮮語版)」がマッカーサーに対し「独島(トクソム)、波浪島、鬱陵島、対馬」が韓国領との請願書を送付[122]。
8月15日:李承晩、大韓民国建国を宣言し初代大統領に就任。
1949年(昭和24年)
11月19日:シーボルト駐日政治顧問代理は、国務長官宛てに「竹島に対する日本の領土主張は古く正当と思われる」と提言。
12月29日:竹島を日本の領土として明記したサンフランシスコ平和条約の草案が作られる。
1950年(昭和25年)
6月8日:韓国は竹島で「遭難漁民慰霊碑」を除幕。
6月25日:朝鮮戦争勃発。
1951年(昭和26年)
4月5日:英国のサンフランシスコ条約草案が日本が放棄する領土を緯度、経度で記載。竹島は放棄する領土に位置していた。
6月14日:サンフランシスコ条約草案で、日本の放棄すべき島から竹島が除外される。(日本の保有領土の項は無くなる)
7月6日:SCAPIN-2160 が発令、これに伴い SCAPIN-1778 は廃止され、引き続き竹島を爆撃訓練場とし、隠岐および本州西部沿岸住民への事前通知を条件とする。
7月10日:開城で休戦会談が開始。
7月19日:梁裕燦韓国大使がダレス国務長官顧問と会談し、対馬への領有権主張の取り下げを確認し、同時に「独島」「パラン島」の領有、マッカーサー・ラインの存続を求めた書簡を提出。
8月3日:国務省にて「独島」「パラン島」が確認できないとの認識(ボッグスメモ)。
8月10日:ディーン・ラスク国務次官補から韓国大使に宛てた「ラスク書簡」で、「「独島」が朝鮮の領土であったことも主張されたこともなく、「パラン島」は取り下げられたとみなす。」また、マッカーサー・ラインも存続しないと回答[123]。
9月9日:サンフランシスコ平和条約に49カ国が署名、竹島は放棄すべき領土に明記されず。
サンフランシスコ平和条約署名後
1951年
9月21日:韓国の卞栄泰外務長官はムチオ米国大使宛の書簡で、SCAPIN-677 などを根拠として竹島の領有権を主張。
11月14日:新聞記者などを乗せて11月13日に境港を出航した鳥取県立境高等学校水産科の練習船「朝凪丸(112トン)」の一行が14日午前に竹島へ上陸[124]。
1952年(昭和27年)
1月18日:韓国政府が李承晩ラインを宣言し、マッカーサー・ラインに続いて竹島を自国側の海域に入れる。日本政府は、韓国政府が竹島に「領土権を主張しているように見えるが」認めないと口上書により抗議[125]。
2月12日:韓国政府は、SCAPIN-677 およびマッカーサー・ラインにより竹島が韓国領であることが確認できると反論(竹島に関する日韓政府の初の応酬)。
4月25日:マッカーサー・ラインが失効、韓国は李承晩ラインを引き続き主張。日本政府は、韓国政府に再反論[注 9]。
4月28日:サンフランシスコ平和条約が発効。
5月20日:島根県住民は米軍の竹島爆撃訓練の中止を求める請願書を提出。
7月26日:日米合同委員会は竹島を米軍の海上演習場として指定[126]。
9月17日?9月28日:韓国山岳会(朝鮮語版)が鬱陵島・独島学術調査団を派遣[121]。
12月4日:韓国による米軍の竹島爆撃訓練への抗議に対し、米政府は「我々のこの島への領有認識はラスク書簡の通りである。」と回答。
1953年(昭和28年)
1月12日:韓国政府が李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。
2月4日:済州島付近で日本漁船の漁労長が韓国軍の銃撃を受け死亡。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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