竹島問題
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1962年10月20日大平正芳外相との会談で金鍾泌中央情報部長は、国際司法裁判所への付託を拒否したが、米国務省外交文書集によれば、金鍾泌は日本側に竹島問題の解決策として竹島破壊を提案していた[27]。金鍾泌は、東京での池田勇人首相および大平外相との会談後、訪米。1962年10月29日ディーン・ラスク国務長官との会談において、ラスクが「竹島は何に使われているのか」と問うたところ、金鍾泌は「カモメが糞をしているだけ」と答え、竹島破壊案を自分が日本側に提案したと明かした[27]

のちに韓国国内で「独島爆破提案説」が問題視された際、金鍾泌は「日本には絶対に独島を渡すことはできないという意思の表現だった」と弁明している[28]。また2010年朝鮮日報の取材に対して金鍾泌は「国際司法裁判所で日本のものだという判決が出ても、すべてを爆破してなくしてしまってでも、あなたたちの手に渡すつもりはない」と激高して発言したと回想している[29]が、これは米国務省外交文書集「東北アジア1961-1963」収録関連会談記録の様子とは趣が異なる。
竹島密約

日韓基本条約締結おける障害の一つであった竹島問題に関し、韓国の雑誌「月刊中央」2007年4月号で、日韓基本条約締結5ヶ月前の1965年1月11日に、日本の河野一郎建設相の特命を受けた宇野宗佑衆議院議員が、ソウルで朴健碩 汎洋商船会長の自宅で丁一権首相に会い、「未解決の解決」を大原則に全4項からなる竹島付属条項に合意していたとした。その密約は翌日の1月12日に朴正煕大統領の裁可を受け、宇野は13日に河野大臣を通じ佐藤栄作首相に伝えたとしている[30]

「月刊中央」の客員編集委員だったロー・ダニエルは金鍾泌の兄で銀行家の金鍾洛に対するインタビュー取材をおこなったが、そのなかで金鍾洛は韓国と日本が竹島問題を「今後解決すべきものとしてひとまず解決と見なす」というアイデアは自分が出したと述べたうえで「こうして独島密約は結ばれ、当時の朴正煕軍事政府は韓国が韓半島の唯一の合法政府という明言を日本から受けること、経済開発に必要な経済協力資金の確保という2つの問題をともに解決したことになった」と明らかにした[30]

竹島密約は「解決せざるをもって、解決したとみなす。従って、条約では触れない」という2文を中心に、
独島(竹島)は今後、韓日両国ともに自国の領土と主張することを認め、同時にこれに反論することに異議を提起しない。

将来、漁業区域を設定する場合、両国が独島(竹島)を自国領土とする線を画定し、2線が重複する部分は共同水域とする。

現在韓国が占拠した現状を維持する。 しかし警備員を増強したり新しい施設の建築や増築はしない。

両国はこの合意をずっと守っていく。

という4つの付属条項を付けていたとしている[30][31]。こうした密約が実際にあったかどうかについては、今後の歴史学者の研究に委ねられるとしても、国交正常化当初は、両国ともこの密約にしたがうような穏やかな立場からの相互の見解表明より日韓関係が開始していたことは事実である[31]。しかし、1993年に成立した金泳三政権時代以降の韓国では、竹島問題をめぐる感情的な対日批判が先鋭化するようになり[31]、また、同政権が竹島に新たに接岸施設を建設したことで、(密約があったとしても)付帯条項3.の約束は明白に破られたことになる[30]

2007年3月20日塩崎恭久官房長官はこのことについて「政府としてはそのような密約があるとは承知していない」と否定した。
日韓基本条約と日韓両国の紛争の平和的処理に関する交換公文

1965年の日韓基本条約調印によって李承晩ラインが正式に廃止されたが、竹島の領有権に関しては日韓双方譲らないため、紛争処理事項として棚上げされた。

また、日韓基本条約締結に伴い「日韓両国の紛争の平和的処理に関する交換公文」が取り交わされた。そこには外務部長官李東元署名による韓国側書簡として

「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかつた場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によつて解決を図るものとする」

とある。この公文には竹島、または独島という名称は記載されず、一般的な「紛争」についてだけ記載された。竹島問題は李承晩の海洋宣言以来の紛争事項であるが、韓国側は竹島・独島は紛争事項ではないという立場をとっている。

なお、日本側は日韓国交正常化に至る1951年から1965年までの外交交渉文書の開示を拒み続けている。この文書には竹島問題について日韓双方の発言や、昭和天皇と韓国高官とのやりとりなどが含まれているという[32]
日韓漁業協定以降

1965年の旧日韓漁業協定では竹島問題については棚上げされた。1980年前後には韓国漁船が山陰沿岸および北海道近海にまで出漁(密漁)し、日本の漁業者と係争が起こった。島根県のシイラ漁漁船は35統から8統にまで激減する[33]

1996年に日韓両国は国連海洋法条約を批准。それに基づき新日韓漁業協定の締結交渉が開始され、両国の中間線を基準に暫定水域を設定、この海域において双方の漁獲が制限付きで認められた。日本側の配慮により日本が大幅に譲歩した暫定水域は、日韓共同で利用する協定であった。しかし、その後も韓国漁船が漁場を独占し、日本漁船が操業できない状態が続いている[25]。さらに韓国漁船は日本側の排他的経済水域(EEZ)にまで侵入するなど不法な漁業行為を行い、また竹島の周辺海域では韓国軍が頻繁に監視を続けている。


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