竹島問題
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1952年7月26日、サンフランシスコ条約発効と同時に日米安全保障条約を発効させた日米両政府は、竹島をアメリカ軍の訓練地として日本が提供することを約する協定を締結したが[11]、竹島周辺海域で漁業を行っている日本人漁民から強い抗議を受けて爆撃演習場から除外をしている[12]。韓国政府はこれをアメリカが竹島を韓国領土として認めて配慮をしたと解釈し、韓国側の竹島領有の根拠の一つとしている[13]。翌1953年1月12日、韓国は李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示し、同2月4日には第一大邦丸事件が発生、済州島付近で操業中に漁撈長が韓国軍から銃撃を受け死亡した。同4月20日に韓国の独島義勇守備隊が竹島を占領して以降、韓国警察の警備隊が続けて駐屯している。日本政府は当初より韓国側の不法占拠であるとの声明を出して抗議し続けているが[14]、韓国政府は「李承晩平和線(李承晩ラインの韓国側での名称)は国際的先例のある韓国の主権行為であり、さらにこの問題は1965年の漁業権交渉と請求権交渉ですでに解決済みであって、日本政府があたかもまだ解決されていないかのように宣伝するのは政治的プロパガンダである」との立場を取っている(なお、1965年の漁業権交渉と請求権交渉で領有権交渉については棚上げにされている)。日本は、現在も領土問題は解決に至っていないと主張しているが、韓国側はやはり「そもそも独島に領土問題は存在しない」という立場を崩していない。「マッカーサー・ライン」および「李承晩ライン」も参照
竹島の漁業経済価値と排他的経済水域問題日韓漁業協定による暫定水域

竹島は険しい岩山で面積も狭く島自体から得られる利益はほとんど無いが、周囲の広大な排他的経済水域 (EEZ) の漁業権や海底資源の権利が存在する。現在この島のEEZ内で石油などの海底資源は特に見つかっておらず、現在最も問題になっているのは漁業権である。竹島と周辺海域の経済価値は、1952年の日本の水産庁によれば130億円(李ライン内)、1974年の島根県漁連の算出では年間漁獲高は76億円[15]、2010年の韓国の算出では年間11兆5842億ウォン(約8600億円)である[16]。現在の日韓漁業協定では竹島周辺海域に共同水域を設けているが、韓国側の違法操業が問題になっている。
当時の国際海洋法から見た李承晩ライン詳細は「李承晩ライン」を参照

1952年の李承晩ラインの狙いは漁場としての利益であったともされ、韓国による近海漁業の独占が目的であったとされる[17]。1951年の国際法委員会草案では「いかなる場合にも、いかなる水域も漁業を行おうとする他国民を排除してはならない」と排他的独占権は認めておらず、また「管轄権は関税徴収や衛生目的のものであり、沿岸国が漁業を独占するための管轄権は認められない」とも記されている[18]海洋法からみても違法である[18]が、1952年1月の李承晩ライン設定に関して1958年に制定された海洋法を適用することは法律の遡及に当たり無効という考えもある。このような漁業独占権宣言は、1945年トルーマン宣言を曲解した、アルゼンチンペルーなど南米諸国にも起こったが、トルーマン宣言の「水域は他国と合意された規程により統制管理される」とした内容にも反しており国際問題になっていた(李承晩ライン#トルーマン宣言参照)。海洋法の制定された1958年以前は、抗議する日本に対し韓国は李承晩ラインを韓国の主権行為として反論している。1956年4月13日、日本の重光葵外相は、韓国の李承晩ラインを認めることはできないが、韓国に拿捕された漁民を救出するためには、韓国に寛大な姿勢を見せることも必要ではないかと発言している[注 2]

1958年以降、日韓会談においては漁業管轄権を国際海洋法の観点から否定する日本に対して韓国側は反論できなかったが[18]、李承晩ラインは1965年の日韓基本条約まで解消されることはなかった。
韓国軍による日本人漁民殺害と日本漁船拿捕韓国海洋警察隊による日本漁船拿捕(1953年)

朝鮮戦争中の1952年1月18日に韓国の李承晩大統領によって海洋主権宣言に基づく漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)がひかれ、竹島が韓国の支配下にあると宣言した。1952年のこの宣言から1965年の日韓基本条約締結までに、韓国軍は李承晩ライン越境を理由に日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷させ、3,929人を抑留した[7]。1947年から1965年末までに日本人8人の死亡が確認されている[20]。韓国側から日本の海上保安庁 巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃された。

1953年1月12日、韓国政府が李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕して以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。同年2月4日には第一大邦丸事件が発生した。済州島付近で操業中の同船が韓国側に銃撃を受け、漁撈長の瀬戸重次郎が死亡した。
独島義勇守備隊と韓国警察の竹島上陸島根県より民間人3名に対し、アシカ漁再開の許可が出たことを伝える新聞記事(1953年6月17日「山陰新報」)日本人による竹島の標識設置(1953年6月27日)


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