竹島問題
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実効的な占有については、国家は私人の行為の追認をもって国家占有とできるので[注 7]、日本は閣議決定で追認を行い、かつ国有地台帳への登載、あしか漁業許可、 国有地使用料の継続徴収など国家占有の行為があり、「国家権能の平穏かつ継続した表示」を継続していた。(なお韓国による軍事占領は「国家権能の平穏かつ継続した表示」には当たらない)以上、伝統的な領土取得方法としての「先占」の要件が具備されたほか、1905年の日本による竹島編入について、韓国側は「法的に不十分な手続きで、秘密裏に行われたもので非合法」とするが、当時の国際法から見ても、また先占の要件を満たしていることからも十分に合法であり、また「秘密裡」という表現は当時の告示と報道からしても当たらない。なお、判例においては「秘密裏に実効支配をすることはできない」とされており、特定の編入手続きではなくその実効性が争点となる。
通知義務

実効性以外に通知の手続きを要するとの主張がなされることがあるが、パルマスクリッパートンの判例において通知義務は否定され、通知義務を支持する国際法学者もごく少数である。

1877年陸軍1882年に地理省[どれ?]が制作した『大日本全圖』には、二つの島は日本領から除かれている。

明治政府が竹島を島根県に編入直後まで韓国の主張の概略日本の主張の概略
1870年、日本の「朝鮮国交際始末内探書」に「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」の記述がある。この時日本人の呼ぶ「竹島」は鬱陵島で、「松島」は独島(現在の竹島)である。日本は独島を朝鮮領と認めている。当時の韓国地図は全て絵図であり、正確な距離などは記されなかった。大東輿地図」の鬱陵島(1861年)。鬱陵島の東に現在の竹嶼と比定できる「于山」と記された島が隣接している。

「朝鮮国交際始末内探書」の「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」は明治政府が朝鮮の古文献を調査した結果で、朝鮮の文献では于山島を松島としている。于山島は朝鮮の多くの古地図より鬱陵島の西や北そして次第に現在の竹嶼を描いているので、この松島は現在の竹島でないことは明白である。
「太政官指令」の添付地図「磯竹島略図」[注 8]1877年、日本は太政官指令により「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」としている。またその経緯を纏めた太政類典第二編にも「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」としている。「竹島」が鬱陵島で「外一島」が独島(現在の竹島)であることは「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に添付された「磯竹島略図」や本文から明らかであり、日本はこの時独島を朝鮮領としている[注 9]。日本の太政官指令にある「竹島外一島」は当時島名がはっきりしなかった島である。江戸末期、当時の竹島(現在の鬱陵島)や松島(現在の竹島)の位置を誤って記録した経緯度入りのヨーロッパの地図が日本に入り、実在しない位置に描かれている島を「Takasima」、現在の鬱陵島を「Matsusima」、現在の竹島を「Liancourt Rocks」などとしていたため、明治初期の日本地図もこれに倣って作成されている。「竹島外一島」はこの実在しない位置の「竹島」と鬱陵島であり、これを版図外とした。

したがって本来の松島(現在の竹島)との誤解を避けるため松島の名称は使わず「竹島外一島」としている。
新撰朝鮮国全図(1894年、田中紹祥)[注 10]

1877年の陸軍、1882年の地理省、が制作した『大日本全圖』では、松島が日本領から除かれている。そして、1882年に日本が製作した『朝鮮国全図』や『新撰朝鮮国全図』にその二島を描いている。即ち日本が松島(現在の竹島)を島根県に編入する1905年以前、松島(現在の竹島)を朝鮮領としている[注 11]


『大日本国郡全図』「隠岐」(1875) 隠岐のほかに離島として竹島も描かれている。

『朝鮮国全図』の竹島は存在しないアルゴノート島のことで、この松島は鬱陵島のことである。当時の日本の地図は全て鬱陵島を松島としている。下部に描かれている日本の位置からもこの地図の松島は鬱陵島であり、大きさや形も鬱陵島に近く現在の竹島とは全く違う。この地図には経度も記入されておらず、緯度も大きくずれており、当時、竹島と松島の位置が混乱していたことがよく分かる。
また、の1875年に製作された『大日本国郡全図』では、「隠岐」の離島として竹島(鬱陵島)と松島(現在の竹島)を描いており、日本が松島(現在の竹島)を島根県に編入する1905年以前の明治期に、鬱陵島と現在の竹島を日本領とする地図が存在する。
「奥村亮口述書」(1953年、 外務省アジア局第二課)1900年に皇帝高宗より発せられた大韓帝国勅令で「石島を鬱陵郡に属す」としている。『高宗実録』1882年條によれば、それまで現在の竹島の名称であった「于山島」を高宗が一時的に日本式名称の「松島」に変更している。その後、移住政策によって全羅道の人々が鬱陵島に移住した。全羅道の人々は現在の竹島を「トクソム(石島)」と呼んだ。全羅道の方言ではトル(石)はトクに変るためだ。これが大韓帝国勅令第41号[8]の中の「石島」である。トクは同じ発音である「独」に置き換えられ、ソムも音読みである「ト」に変更し、トクト(独島)という名称が生まれた。すなわち、「石島」こそが独島(現在の竹島)である。日本側に勅令の石島は観音島ではないかとの主張があるが、観音島は、「観音島」以外にも「島項」、「カクセソム」という別名もあったため、不明確な石島という名称を使う必要はなかった。

また、日本外務省アジア局第二課の書いた『竹島漁業の変遷』(16)に載る「奥村亮口述書」によると、漁師の奥村氏は1953年7月11日の口述で、「当時、朝鮮人は、ランコ島(竹島)を独島(トクソン)と呼んでいた。ただし、 日本人と会話するときには「ランコ」島と呼んでいた。」と述べた。[46] これを見ると、日本統治時代の鬱陵島住民たちが竹島を独島、石島(トクソン)と呼んだことが分かる。 それが石島という正式名称で反映されたのだ。鬱陵島北東端100メートルにあるのが観音島、東海岸より2キロメートル沖にあるのが竹嶼大韓帝国勅令の石島が現在の竹島であるという証拠は存在せず、発音による名称の変化は想像に過ぎない。「石島」から「独島」に漢字表記が変更されたことを示す文書も発見されていない。大韓帝国勅令では「鬱陵全島と竹島石島」としており、この「竹島」が鬱陵島最大の付属島の竹嶼(韓国名の竹島)であり、朝鮮の古地図を見ても「石島」は2番目に大きい現在の観音島である可能性が高い。観音島は他にも別名があり名称が不確定であった。また、この勅令はあくまでも鬱島郡の行政範囲を示し、大韓帝国の官制・地方制に位置づけたものであり、領土編入のために発せられたものではなく、地図や経緯度も付されていない。
大韓地誌』や『大韓新地志』の著者は民間の学者であり、官製図書ではない。そのため当時の公的な見解とはみなされない。さらにその後記から、これらの地理書は日本の地理書を翻訳した翻訳書であることが明確であるため、独島領有権とは無関係である。『大韓地誌』(1899)『大韓地誌』( 1899年)と『大韓新地志』(1907年)の記載には、「鬱島郡の行政地域は東経130度35分から45分までである」としている。竹島はその行政区の外131度55分にあり、当時の韓国は竹島を韓国領としていなかった。また『大韓地誌』の大韓帝国の領域は東経130度35分までと記しており、現在の竹島はもとより鬱陵島も大韓帝国領としていない。この頃の韓国の東端を示す資料は全て東経130度33分?58分に入っており、現在の竹島を韓国領としていない。
1905年の時点で現在の竹島が無主地であったという日本側の主張は1905年以前は日本の領土ではなかったという意味でもあり、現在の日本政府の「竹島固有領土説」を自ら否定するという論理的矛盾に陥っている。1905年、独島(現在の竹島)は無主地ではなかった。日本がまだ独島を「リャンコ島」と外国名で呼んでいたころ、韓国は少なくとも1904年には「独島」という韓国固有の名称をもっていた。


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