竹島問題
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また、幕府がこの地図をもってアメリカに小笠原の領有権を認めさせたというのは新聞の歴史小説上の話であり、事実ではない[注 6]。当時はすでにこの地図よりも遙かに正確な経緯度線入りの『改正日本輿地路程全図』が普及しており、竹島(現在の鬱陵島)と松島(現在の竹島)が描かれている。18世紀に入ってからの朝鮮・韓国の古地図の于山島は、全て鬱陵島近傍の竹嶼に比定できる。したがって、于山島は現在の竹島ではない。
1836年大坂町奉行竹島事件の裁判が行われたが、その際に資料として提出された「竹島方角図」[38]に朝鮮半島と竹嶋(鬱陵島)・松シマ(現在の竹島)が朱色で塗られており、朝鮮領として描かれたものと考えられる。1870年、その事件について書かれた「朝鮮竹島渡航始末記」の添付地図を見ると、松シマ(現在の竹島)は白色の日本領ではなく、朱色の朝鮮領である。

(詳しくは竹島事件参照)竹島事件の「竹島方角図」は、民間人である会津屋八右衛門が尋問中に書いたもので八右衛門の活動地を朱色で塗ったに過ぎない。したがって江崎下関・対馬付近にも朱色の印がある。国外との貿易について幕府の筆頭老中だった浜田藩松平康任が「竹島は日の出の土地とは定め難いが松島なら良い」としたことや、竹島事件の判決文に「松島へ渡航の名目をもって竹島にわたり」との一節があることから、竹島(鬱陵島)への渡航は禁止したが松島(現在の竹島)への渡航は禁止されていなかったことが分かる。これ以前の1820年には浜田藩の儒学者中川顕允が編纂した『石見外記』にも高田屋嘉兵衛北前船が竹島と松島の間を航路として使用していることが書かれており、松島(現在の竹島)を国内とみなしていた。
金正浩『大東輿地図』(1861) 鬱陵島の東側に"于山"と書かれた島が隣接しており、峰が描かれている。19世紀に作成された韓国の地図には、鬱陵島の東に于山島が明確に描かれているものがみられ、その于山島には峰が描かれているものがある。竹嶼には峰がないため、これらの地図の于山島は明確に独島(現在の竹島)を表している。『大東輿地図』(1861年)の于山島は鬱陵島の東に隣接し一島で構成されている。現在の竹島は、西島・東島の2島で構成されており、その位置や大きさも全く違う。島の形状、地図に付された距離の目盛りからいって、この于山島は現在の鬱陵島に隣接する竹嶼を描いている。
『大韓地誌』の附図『大韓全図』日本は1899年に編纂された『大韓地誌』を根拠に于山島は独島(現在の竹島)ではないと主張するが、この地誌の後記に「この本は日本の地理書を翻訳したもので不足な点が多い」と記されている。鬱陵島や于山島は韓国領であるにもかかわらず「大韓帝国の領土は東経124度30分から130度35分である」と書かれており、鬱陵島も含まれていない[39][40]。したがって、この書物や地図の内容は正確ではなく、『大韓全図』の鬱陵島に「于山」の記載があるからといってその位置が于山島の正確な位置とはいえない。大韓全図の鬱陵島周辺部鬱陵島の衛星写真(上が北)。鬱陵島の北東に小さく見える島が竹嶼。

1899年に朝鮮の歴史家の玄菜によって編纂された地理書『大韓地誌』の中に、「大韓全図」という経緯度入りのかなり正確な付属図が付いている。この地図中に鬱陵島と並んで于山の名が記載されている。于山島と書いていないことから、于山が鬱陵島とその周囲に記載されている島全体を指しているか、または于山の文字の位置関係から、現在の鬱陵島に付属する竹嶼という島であることが推測できる。この『大韓地誌』は大韓帝国の学校でも使われたことのある信用性の高い地図である。



決定的期日「決定的期日」も参照

他国の抗議等により紛争が顕在化した日(決定的期日)以降の法的立場の改善を目的とした活動は、領有権の根拠になり得ないとされている[41]国際裁判所によってこの決定的期日が設定されると、特殊な事情が存在しない限り決定的期日以前に存在した事実のみ証拠能力が認められることとなり、決定的期日以降に当事国が自国の立場を有利にするために行った活動は証拠として認められないこととなる[42]。竹島問題の決定的期日が具体的にいつの時点であるかについて学説は一致していないが、下記表の時点が決定的期日の候補として挙げられている[42]

決定的期日として主張されることがある日付[42]日付出来事
1905年2月22日島根県告示40号により日本が竹島を編入したと主張
1951年9月8日日本国との平和条約締結
1952年1月28日韓国の李承晩ライン設定に対して日本が抗議
1954年9月25日日本が国際司法裁判所(ICJ)への付託を提案
将来日韓の間にICJへ付託することの合意が成立し、ICJの手続きが開始される日
竹島問題に関しては決定的期日は設定されない

近年の国際司法裁判所の判例では、国際司法裁判所は紛争発生時を決定的期日として設定する傾向がある[42]。この傾向にならえば、李承晩ライン設定に対して日本が韓国に抗議を行った1952年1月28日が決定的期日として設定される可能性が高いと言える[42]。しかし決定的期日が設定されなかったり、将来紛争が国際司法裁判所に付託される未来の時点に決定的期日が設定される可能性も完全に否定できるわけではない[42]。例えばマンキエ・エクレオ諸島事件国際司法裁判所判決では決定的期日が設定されなかったとの指摘も一部には存在する[42]。そうした場合には、韓国が竹島を半世紀以上にわたり占拠してきた事実や、それに対して日本が抗議し続けてきた事実も証拠として考慮されうることとなる[42]
日本による竹島編入の有効性Liancourt Rocks を「竹島」とし、島根県の所管とした決定書。
1ページ2,3ページ

日本政府は、竹島であしか漁を営む国民個人からの領土編入貸下願を契機に、1905年1月28日閣議決定をもって島根県への編入を決定し、同年2月22日、島根県知事松永武吉により告示された。同5月、松永知事は、竹島を官有地台帳に登録し、同6月あしか漁許可、翌1906年3月に県は実地調査も行う。


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