竹島問題
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日本側の主張によれば、現在の竹島は江戸時代には既に日本人によって幕府公認の下で鬱陵島に渡る際の航行の目標及び船がかり(停泊地)やアシカアワビなどの漁猟として利用されていた。その後、明治政府は1905年1月の閣議決定で無主地であった現在の竹島を島根県隠岐島司の所管としたとしている[7]

韓国側が領有の根拠としている古文献や古地図に登場する「于山島」については、これが現在の竹島だとする主張は事実にそぐわず、根拠がないとしている。他方、日本側が現在の竹島の存在を古くから認知していたことは数多くの文献や地図から確認できるとしている(詳しくは于山島を参照)。

また、1952年に韓国が設定した李承晩ラインは一方的なものであり、加えて、その後李承晩ラインが日韓基本条約によって廃止されたにもかかわらず韓国が警備隊を常駐させ竹島を占領し続けていることに国際法上何ら根拠がないと主張している。また、日本側が平和的解決を求め国際司法裁判所に付託することを何度も韓国側へ提案するも応じていないことも問題視している。
日本の江戸時代の松島(現在の竹島)を示す地図


日本では、江戸期に現在の竹島を「松島」、鬱陵島を「竹島」と呼んでいた。(「嶋」・「嶌」は「島」に同じ)


『松嶋絵図』(1656年頃)

『竹嶋之図』(1724年) 鳥取藩作成

『竹嶋之図』(1724年) 鳥取藩作成

『竹嶋之図』(1724年) 鳥取藩作成

長久保赤水『改正日本輿地路程全圖』(1775年)部分:神戸大学住田文庫所蔵

木村蒹葭堂『華夷一覧図』(1790年)

山村才助『華夷一覧図』(1806年):国立公文書館所蔵

高柴栄三雄『大日本國郡輿地全圖』(部分)(1849年)長久保赤水の図に手を加えた地図:東北大学狩野文庫所蔵

長久保赤水「亜細亜小東洋図」(写本、1857年)部分

韓国・北朝鮮の主張の概略詳細は「#争点」を参照

韓国側の主張によれば、現在の竹島(独島)は古代から于山島の名で知られている韓国の領土であり、1696年には朝鮮安龍福が現在の竹島から日本人を追い返し日本に渡り幕府に抗議した。その後、幕府は鬱陵島(当時の竹島)と現在の竹島(当時は松島)を放棄したと判断している(日本側は鬱陵島は放棄したが、竹島は放棄していないという立場を採っている)。また、1877年に日本は太政官指令により鬱陵島と現在の竹島(松島)を日本の領土から除外しており、その後1900年大韓帝国勅令第41号[8]が官報に掲載され、竹島(独島)は石島という名で鬱島郡(=現、鬱陵郡)の管轄となったとしている。日本側が領有の根拠のひとつにあげている1905年の竹島編入については、日本の「韓国侵略」の過程で行われたものであり、無効であると主張している。

なお、「解放」後の韓国政府は、戦後処理のうち帰属財産問題と対日賠償請求に特に力点を置いており、領土問題としては、竹島ではなく長崎県対馬の「返還」を、しばしば日本に対して要求していた[9]1948年1月23日、南朝鮮過渡立法委院委員60名が「対馬島返還要請願書」に署名して提出し、2月17日韓国国会でも来たる対日講和会議では対馬島「返還」の提案が立議された[9]。李承晩大統領は、大韓民国政府樹立直後の1948年8月17日の記者会見において「対馬は韓国領」との声明を発表し、9月10日には大統領特使も東京での会見で「対馬は韓国に帰属すべき」と発言した[9]1949年年頭の記者会見でも李承晩は「対馬を返還すべき」として、対馬領有権を強く主張したが竹島への言及はなかった[9]。竹島については、米軍政期にあっても韓国の地図や文献には竹島は描かれておらず、この時期の地理の教科書や地図では韓国領土の東限を鬱陵島としており、竹島を領土外とする状態が長くつづいた[9]。「独島」返還要求は、1948年8月5日の憂国老人会という民間団体がGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーに送った請願書の中で、対馬とともに「独島」と波浪島という実在しない島の返還を求めたのが最初であった[9]
北朝鮮の立場

北朝鮮による領有権の主張は、もっぱら韓国による竹島の実効支配を支持するという形で行われている。北朝鮮は竹島が軍事境界線以北に属するとは主張しておらず、黄海における北方限界線問題のような実効支配をめぐる南北間の対立は存在しない。
「于山」の名が残る朝鮮の古地図


新増東国輿地勝覧』(1530)の付属地図「朝鮮八道総図」部分

1628年の地図(地図の東側、鬱陵島と朝鮮半島の間に于山島がある)

1600年代後半の地図(地図の東側、鬱陵島と朝鮮半島の間に于山島がある)

『廣輿圖』(1737-1776)(鬱陵島の東側に"所謂于山"と書かれた島が隣接している)

金正浩『大東輿地図』(1861)、部分(鬱陵島の東側に"于山"と書かれた島が隣接している)

官撰『大韓地誌』(1899)「大韓全図」部分(鬱陵島の右側に于山と書かれている)

「竹島」が朝鮮の領土と表示された地図


『竹島考證』(1882)、日本で製作され、竹島は朝鮮と同じ色で塗られている。

『竹島渡海由来記抜書控』(1785)、日本で製作された。

紛争の経緯

第二次世界大戦後、竹島を日本の施政権から外していたマッカーサー・ラインは1952年4月のサンフランシスコ条約発効と共に廃止されるが、その直前の1月18日、李承晩が李承晩ラインを宣言し、韓国側水域に竹島を含ませた。日本政府は同月28日に「公海上の線引きに抗議するとともに、竹島に領土権を主張しているかのように見えるがそのような僭称または要求を認めない」との見解を示した[10]。この時点では韓国の竹島に対する領土権の主張は不確実であったが、2月12日に韓国は反論を提示。以降、両国間で竹島の領有権をめぐって文書を交換するようになった[10]。李承晩ラインは韓国が宣言したものであり、日本政府もアメリカ政府もこれを国際法上不当なものと抗議した。1952年7月26日、サンフランシスコ条約発効と同時に日米安全保障条約を発効させた日米両政府は、竹島をアメリカ軍の訓練地として日本が提供することを約する協定を締結したが[11]、竹島周辺海域で漁業を行っている日本人漁民から強い抗議を受けて爆撃演習場から除外をしている[12]。韓国政府はこれをアメリカが竹島を韓国領土として認めて配慮をしたと解釈し、韓国側の竹島領有の根拠の一つとしている[13]。翌1953年1月12日、韓国は李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示し、同2月4日には第一大邦丸事件が発生、済州島付近で操業中に漁撈長が韓国軍から銃撃を受け死亡した。同4月20日に韓国の独島義勇守備隊が竹島を占領して以降、韓国警察の警備隊が続けて駐屯している。日本政府は当初より韓国側の不法占拠であるとの声明を出して抗議し続けているが[14]、韓国政府は「李承晩平和線(李承晩ラインの韓国側での名称)は国際的先例のある韓国の主権行為であり、さらにこの問題は1965年の漁業権交渉と請求権交渉ですでに解決済みであって、日本政府があたかもまだ解決されていないかのように宣伝するのは政治的プロパガンダである」との立場を取っている(なお、1965年の漁業権交渉と請求権交渉で領有権交渉については棚上げにされている)。日本は、現在も領土問題は解決に至っていないと主張しているが、韓国側はやはり「そもそも独島に領土問題は存在しない」という立場を崩していない。


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