竹内まりや
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高校2年生の9月から大学受験を控える3年生の8月まで、AFS交換留学制度を利用して、米国イリノイ州のロックフォールズ(英語版) にある四年制公立高校「ロックフォールズ高等学校(ロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクール(英語版)、Rock Falls Township High School)[gm 6]」で1年間の留学生活を送ることになった[1][13][14][注 5]クラブ活動はコーラス部に入った[13]。パーティで吉田拓郎六文銭の歌を弾き語りで歌い[12]、地元の新聞に載るほどの人気者になったという[12]
大学進学以降

1973年慶應義塾大学文学部へ進学し、英米文学を専攻した[1][注 6]慶應には、日吉キャンパス[gm 7] を本拠として1962年に結成された同校公認のオールジャンル・バンドサークル(音楽バンド同好会)「Real McCOYs(リアル・マッコイズ、通称:マッコイ、慶應リアルマッコイズ、頭字語:KRM)[16]」があり、ジャンルを問わずに音楽とライブ等の演奏を楽しむこのサークルに[16]竹内も籍を置いた[1][17]。3年生の杉真理がリーダーを務めるこのバンドサークルで、竹内は鈴木慶一従妹らとともにバックコーラスを担当している。また、杉のソロ活動をバンド形式でサポートする「PEOPLE(ピープル)」にも参加してキーボードとバックコーラスを担当した[17]。1978年の音楽雑誌での本人取材記事では「友人の杉真理のレコーディングにバック・コーラスで参加したのがデビューのきっかけ」と書かれている[12]。当時の竹内はプロの歌手を目指していたわけではなく、高校時代ビートルズの記事をよく読んでいた雑誌の影響から、将来は音楽雑誌編集者になりたいと思っていた[注 3]

1974年9月7日、杉の率いる PEOPLEは第8回ポプコン関東・甲信越大会(中野サンプラザ)に「踊りに行こう」という曲で出場している。
1970年代後半

1978年、竹内はビクターより発売された『ロフト・セッションズ (1)』に参加し、「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」の2曲を録音する。この「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」はプロモーション・オンリーの7インチシングル盤シングルカットされた。この時の竹内の名義は「竹内マリヤ」であった(※『名義』も参照)。竹内は、同年11月25日、RCA/RVC より、シングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム『BEGINNING』で音楽界デビューを果たした。この時、23歳であった。アイドル不在の時期と重なったため、当初はそのルックスも相まってアイドル歌手のような役割を担った。[12]

1979年8月21日(火曜日)、3枚目のシングル「SEPTEMBER」を発売した。この曲はトップ100圏内に半年近くチャートインし続け、同年12月31日に開催された第21回日本レコード大賞で新人賞を獲得するに到った。「SEPTEMBER」では新宿音楽祭の金賞を受賞し、イタリアサンレモ音楽祭にも出場した[18]


1980年代前半

1980年2月5日火曜日)には、資生堂の化粧品のCMソングとなったシングル曲「不思議なピーチパイ」が大ヒットした。担当した安井かずみが「あなたの声にぴったりな曲」と言われたのを今でも覚えている。当初は安井かずみ加藤和彦夫妻や松本隆などが提供する曲を歌っていた竹内であったが、自らも作詞・作曲を手がけるようになった。

但し竹内自身、当時のアイドル的活動には大きな不満を持っていた。心ならずもバラエティ番組や、雑誌表紙グラビアなどにも引く手数多の、芸能活動をやらされることになった竹内は、歌唱させて貰えない仕事も数多くこなさざるを得なかった。与えられた任務を懸命にこなしながらも、根本的疑問を抱えていたこの時期の竹内の前に、アレンジャー(編曲家)として現れたのが、のちに公私に亘ってパートナーとなる山下達郎であった。

山下と大貫妙子が率いるシュガー・ベイブや山下のライブをアマチュア時代から見に行っていた竹内は、特に自らのデビューライブの直前に見た山下のライブに大きな衝撃を受けていた[19]。竹内のレコーディングにアレンジャーとして起用された山下は、その後、同じRVC所属のシンガーのレコーディングに際して双方がコーラスに起用されるなど、関わりを密にしていった。アイドル的活動に深く思い悩んで行き詰まった自分に山下は親身になって相談に乗ってくれて、それが結婚に到るきっかけになったと竹内は語る[20]音楽番組夜のヒットスタジオ』の同年7月28日放送回に出演した竹内は司会者に問われて山下との交際を認めている(後述参照)。

なお、竹内の結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦細野晴臣告井延隆センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子林哲司伊藤銀次杉真理安部恭弘浜田金吾といった作家が提供している。

1981年、先述したアイドル歌手としてのオファーと、自身の希望する活動とのギャップに原因するストレスと過酷なスケジュールが祟って喉を傷めて入院、音楽活動に一旦整理をつける意味から一時休業を宣言。

1982年4月6日(火曜日)、27歳のとき山下と結婚。これ以降メディア露出はほとんどなくなったが、同時に作詞家・作曲家として活動を開始し、河合奈保子に提供した「けんかをやめて」「Invitation」などがヒットした。同年の秋、山下の担当ディレクター小杉理宇造RVCから独立し、アルファ・ムーンを設立すると、山下も「役員兼所属ミュージシャン」として移籍した。

1984年、アルファ・ムーンに移籍し、シングル「もう一度」、そして全曲を自身が作詞・作曲したアルバム『VARIETY』をリリースした。このアルバムの構想段階では、以前のように外部作家を起用して制作する予定であったが、休業中に書きためたオリジナル曲のクオリティの高さに山下が驚き、結果、全曲を自作曲のアルバムとしてリリースすることとなった。


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