昭和最後の内閣総理大臣であり、平成改元の際の内閣総理大臣でもある。 島根県飯石郡掛合村(現・雲南市)に父・竹下勇造、母・唯子の長男として生まれた。竹下家は300年続く旧家で、江戸時代には庄屋を務め、幕末の1866年から[6]代々造り酒屋を営んできた[7]。登は竹下家12代当主である[8]。父・勇造、祖父・儀造も地域の名望家として活動しており、登も中学生のころから政治家になることを決意していた[9]。 1941年(昭和16年)に旧制島根県立松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を卒業後、旧制松江高等学校を二度受験するも不合格となり、第一早稲田高等学院[注釈 1]に入学。その直前の1944年3月、素封家の娘・竹内政江と学生結婚をする。2人は北区滝野川で新婚生活を過ごすが、8月に登は陸軍に入営し、政江は掛合の実家に帰郷した[10]。 竹下は特別操縦見習士官の第四期生に志願し、飛行第244戦隊に入隊した。同期からは南方の激戦地に配備される者もいたが、竹下は軽井沢、野辺山、伊奈を経て1945年4月に立川の少年飛行兵学校へ配属。少年飛行兵の地上訓練教官となるための基礎教練を受けて、7月1日付で大津へ派遣され、同地で終戦を迎えた[11]。 一方、1945年3月24日には実母・唯子が41歳で京都の病院で死去[12]。妻を失った勇造は、東京から戻ってきていた政江に何かと干渉するようになり、政江はノイローゼになる。店の番頭の勧めで立川の登の下へ向かったが、登は「お前の方に問題がある」と一方的に叱責、政江の苦悩に取り合うことはなかった。5月24日、政江は竹下家の自室で首吊り自殺を遂げる。死亡診断書では「病死」として処理された[13]。 終戦後、登は大津で事務処理を終えて、8月末に帰郷。帰郷後、勇造との間で言い争いが絶えることはなかった。しかしその感情のままに家を飛び出すことはなく、表立っては普通の親子関係を保ち続けた[14]。1946年(昭和21年)1月、遠縁の遠藤家から直子を後妻に迎える。ほどなくして直子は第一子を生むが、結婚からわずか4か月での出産で、登の実子としては計算が合わないことから「実は勇造の子ではないのか」と噂された。ほどなくして竹下は単身東京に戻り、早大に復学する[15]。 早大在学中、竹下は雑司ヶ谷のアパート「長内荘」に住んでおり、仲間を集めては政治談議に興じていた。同じアパートを日本進歩党の新人代議士小川半次が東京の宿舎にしており、竹下は小川に国政の話を聞き、その他郷里の代議士を訪ねたり、国会傍聴にも足を運ぶなどしていた。1947年9月に繰り上げで早大を卒業(商学士)。卒業後は東京で新聞記者となるつもりだったが、小川に「政治家を目指すなら、郷里の青年をまとめることだ」とアドバイスされ、掛合へ戻った[16]。 大学在学中、掛合村の農地委員に立候補し当選。地主の生まれでありながら、戦後の農地解放に率先して取り組んだ。 帰郷後は農地委員としての活動の伝手で青年団を組織、活動を始めるが、当時青年団の活動は夕方から始まるものであり、昼間ブラブラしているのは世間体が悪い、ということで1947年(昭和22年)12月より地元掛合中学校の代用教員(英語科)となる。しかし教育活動は熱心でなく、英語の授業としてはローマ字を教えたくらいで、軍隊時代の話などを面白おかしく話すことがメインであった。生徒も年の近い竹下を「心やすい、気さくなお兄さん」として接していた。メインの活動は青年団活動で、活動の企画を全て立案した。青年団として、小学校の講堂を借りての模擬国会、秋の収穫祭の際ののど自慢大会などを熱心に行った。1949年には飯石郡青年団長に選ばれる[17]。 のちに竹下の側近として活躍した野中広務とは既にこの時代に知り合っている(野中と時間を打ち合わせして同じ山陰本線の夜行列車で上京したこともある。また野中の妻は竹下の掛合中学校の代用教員時代の教え子の一人である)。ほかにも鳥取県の野坂浩賢や千葉県の浜田幸一とも青年団活動を通じて親しくなり、国会活動の際には党派をこえた友情関係があったとされる。 1951年、第2回統一地方選挙において、竹下は県議選出馬を表明する。当時出雲の政治・経済を仕切っていたのは山林大地主の田部長右衛門で、竹下家は代々田部家の中番頭をつとめていた。勇造の根回しにより田部は登の政界進出に協力する考えであったが、この時飯石郡区には田部直系の勝部幸一 竹下は県議を2期務めたが、通常の政治家のように、県議としての実績を背景に国政へと進む、という路線はとらず、政治状況を判断しての最短ルートを選択した。まず、出馬にあたって逆らった田部との関係を修復すべく、自民党の県支部の活動においては、県連会長の田部に親身になって世話をし、再び取り入った。
生涯
生い立ち
帰郷・県議として