章炳麟
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蘇報事件により章炳麟の知名度が高まり、鄒容の『革命軍』と章炳麟の「革命を論ずる書」は知識人の間に広く知られるようになり、特に章炳麟の文章にしては非常に読みやすい文体であったこともあり、双方併せて『章鄒合刻』というタイトルで刊行された。

1904年、蔡元培および陶成章が中心となって、浙江省出身者を中心とする革命団体である光復会が上海にて結成された。設立には獄中の章炳麟が深く関与していたとされる。なお「光復」には清朝によって従属せしめられた中国で光り輝く中華を再度復するという決意が込められている。

1905年8月、宮崎滔天頭山満北一輝といった日本のアジア主義者の協力のもと、東京にて、光復会・華興会興中会を統合した「中国同盟会」が、孫文を代表として結成された。章炳麟は亡命後ただちに入会し、その機関誌『民報』の主筆となって種族革命を鼓吹し、変法派梁啓超の『新民叢報(中国語版)』と論戦を展開した。またアジアにおける被侵略民族にも眼を向けてその団結を図り、亜洲和親会を発起した。しかしやがて章炳麟と孫文両者の革命の方向性、すなわち種族革命志向と西洋的な民権の確立への志向の相違が明確になると孫文派と疎遠となり、1910年に改めて光復会を立ち上げ、同盟会とは対立するようになる。
辛亥革命以降

1911年10月10日武昌蜂起を起因として辛亥革命の成功を知った章炳麟は直ちに帰国した。その革命宣伝の功績により民国政府より勲一等が授与され、孫文・黄興とともに「革命三尊」と称されることとなった。しかし「革命軍興れば、革命党消さん」と述べて中国同盟会の解散を主張したり、中華民国連合会(後に統一党と改称)を組織したことが原因で孫文との意見対立が生じたため、袁世凱に期待を寄せるようになる。辛亥革命直後、孫文らの南京臨時政府と袁世凱の北洋軍閥との間で中華民国の主導権を巡る政争が行われた。争点の一つが首都問題であり、双方が自らの政治地盤への首都設置を要求した。さきの統一党は袁世凱を擁護して首都を南京ではなく北京に置くことを主張し、そのため章炳麟は高等顧問や東北籌辺使に任命された。しかし1913年4月、宋教仁が袁世凱によって暗殺される事件が発生されると、章炳麟は袁世凱より乖離、孫文側の勢力と合流し袁世凱打倒の活動に参加した。その後北京に戻ったところを袁世凱により逮捕され、3年間の軟禁と長女の自殺に遭遇しながらも袁世凱側に参与することはなかった。1916年護法運動が発生すると、翌年章炳麟は北京を脱出してこの運動に参加、孫文の軍政府秘書長として広東省雲南省四川省湖北省を転戦した。湖北から上海に帰り政界を引退した後は政体は中央集権よりも連省自治が望ましいとの主張をし、北洋軍閥及び孫文双方の統一に反対した。

1919年パリ講和会議において山東における ドイツの権益が中国に返還されず日本に移譲されることが梁啓超によって知らされると、日本に抗議する学生運動が発生した(五四運動)。この運動に連動して「サイエンスとデモクラシー」を旗印に儒教批判を行い、また白話(口語)による文章の表現を主張する新文化運動が展開されたが、この時章炳麟は「国粋」・「尊孔読経」を唱え、且つ国共合作や「聯俄・聯共・扶助農工」政策に強く反対した。これは、章炳麟は中国共産党に強い忌避感を持っていたためである。そのため五四運動の代表的な論者からは白眼視され、かつて敵対した康有為とともに保守反動と批判された。

この頃、上海を訪れた日本人を客人としてしばしば迎えている。1921年には芥川龍之介と会談し(#逸話)、1930年には、後に中国語学の権威となる倉石武四郎を迎えている[1]

なお、1913年には湯国梨と結婚している。湯国梨は、同時代の秋瑾や、孫文夫人の盧慕貞宋慶齢宋氏三姉妹)らとともに、辛亥革命期の列女・中国の女性運動家の源流として知られる[2]
晩年

1931年満州事変が勃発してからは、?介石の「安内攘外」(先に中共を鎮圧し、その後で日本を討つ)政策を批判し、「抗日救国」を唱えて日本への抗戦を積極的に主張した。また、五四運動の時とは異なり学生運動を擁護した。

1934年蘇州に移住し、翌年には「章氏国学講習会」を起こして講学する一方、国学の保護を目的に雑誌『制言』を発行した。

1936年6月14日、69歳で死去。遺体は杭州市西湖南屏山の麓に埋葬された。現在その近くには章太炎紀念館が建っている[3]
思想
康有為・梁啓超との論争

章炳麟の論敵は多いが、とりわけ論戦を交わしたのが、康有為・梁啓超ら変法派(保皇派)である。章炳麟の思想は彼らとの論争を通じて形成されてきた。
今文と古文

経学を思想基盤としていても、両者の学派は異なるため、自ずと思想も異なってくる。康有為は今文公羊学を、章炳麟は古文経学を奉じるが、両学派の傾向の相違は「公羊学派は六経を「経」(聖典)と見なし、左伝派は「史」(歴史)と見なす」と説明されることが多い。誤解を恐れずに言えば、公羊学の方がやや宗教的な傾向が強く、左伝派は「実事求是」を志向しているといえる。こうした傾向を最大限展開したのが、康有為の立憲改革論、それに対する章炳麟の「種族革命論」である。

康有為は、当時スタンダードとされた古文経学の経書『春秋左氏伝』が 前漢末・の学者 劉?によって偽造されたものであって、今文公羊学にこそ孔子の真意が正しく伝えられていると主張した。さらに康有為は、孔子の真意とは伝統を維持保存するのにあるのではなく、むしろ改革こそが孔子の行わんとしたこと(孔子改制)であるとし、実は六経は孔子が周公旦に仮託して書いたものだ、という。いうまでもなくこの意見はマイナーなものであって、正統な経学とは言い難い。こうした突飛なことが言えるのは、康有為が考証の堅実な積み重ねに拠らずして「微言大義」に依拠しているからである。「微言大義」とは経書の僅かな字句に孔子の隠された真の意図が込められていると考え、それを読み取ろうとする解釈法である。非常に解読者の主観が忍び込みやすいと言わねばならない。

康有為によれば孔子の真の意図とは要するに立憲君主制や自由平等な社会の到来であったとされる。端的に言えば、康有為の孔子とは社会制度の改革者と宗教的な予言者を兼ね備えた存在であった。他方で清末考証学において、孔子はすでに独尊の存在ではなく、墨子等の他の諸子百家と同じ地平にまで引き下ろされていた。孔子の真の教えを考証でもって探ろうとした考証学は、皮肉にも孔子の聖人性を減じ、諸子の一人としてしまったのである。そうした清末の思想状況にあって、「孔子改制」を唱えるためには、六経およびそれを著した孔子は神秘性を帯び権威を持った存在であらねばならなかった。かくして康有為は儒教に孔子教(あるいは孔教)という新たな呼称を与えて、儒教を宗教化する運動を推進したのである。

しかし儒教宗教化は単に改革正当化としてのみ企図されたのではない。政治制度や価値観(三綱五常から自由・平等へ)をたとえ変えても、不変的な精神的支柱 - たとえば西洋のキリスト教や日本の神道のごときもの - が国家にあらねばならないという意識も背後にはあった。いずれにしても康有為は経学・孔子のイメージを大きく書き換えようとしたと言えよう。

他方、章炳麟は「劉子駿私淑弟子」(子駿は劉?の字)という印を使用していたことからも知れるように、古文経学の徒である。章がはじめ変法派に与していたことは上に述べたが、その中で次第に公羊学との差異を意識するようになり、その後『左氏伝』の民族主義的部分を殊更に強調し対抗するに至った。章炳麟は六経を聖典ではなく歴史ととらえる。よって孔子や経書に神秘性は全く不要であり、当然孔子教という発想にも猛反対する。そして「微言大義」の解釈恣意性を取り上げ、「孔子改制」は実質「康子改制」にすぎないと非難した。

しかし章炳麟にとって歴史として六経を解することは、決して経書及び孔子への敬意が損なわれることを意味せず、むしろ尊敬の所以に他ならない。また民族に歴史を与えた孔子は間違いなくそれだけで不朽の存在であった。何故なら歴史こそが民族に文明と伝統がいかに作られたかを知らしめるからだという。そして章炳麟はここから、孔子およびその後継者(つまり史家)は漢民族の輝かしい中華文明の事績を書き留めてきたが、その継承者たる漢民族が夷狄たる満州族の足下にひれ伏してよいはずがない、と考えを推し進める。ここに至って章炳麟は、古文経学から文明とはすなわち国粋という概念を抽出し、それを光復するために種族革命を唱道するに至るのである。こうした思想は古文経学からのみ導き出されたのではなく、考証学の一学派たる浙東史学、とりわけ章学誠の「六経皆史」という考え方(儒教の経典は全て歴史として捉えるべきという考え)に影響されたためだと言われている。この浙東史学は民族主義的である点がその特徴の一つであって、章炳麟の種族革命はそれに助長された部分があると思われる。
満州族支配をめぐって

清朝はいうまでもなく、17世紀満州人が打ち立てた王朝である。その満州人支配をどう解釈するかも、章炳麟と康有為の間に横たわる大きな差異であった。2人とも経学に拠って語る以上、それは畢竟華夷思想の基準は何かという点に行き着かざるを得ない。公羊学には社会が進むにつれて、中華と夷狄の差異が解消していき、最終的には大一統に至るという理念がある。康有為はそれを漢民族と満州族に当てはめ主張した。康有為によれば華夷思想における華と夷の違いとは、文明か野蛮かの違いであるという。したがって今の満州人は教化・礼楽・言語・服飾いずれも漢民族と変わりないことから同一のものと見なすべきであり、皇帝が満州人であってもなんら問題ない。さらに満漢相争う事となれば内戦とならざるを得ず、それは中国のためにならない、つまるところ「満漢不分・君民一体」をもってテーゼとしたのである。

これに対し章炳麟は華夷の別は民族にあり、ということを強く主張した。それは『左伝』の「我族類に非ざれば其の心必ず異る」といった民族主義的な箇所を拠り所とするものだった。また文字の獄のごとき、清朝初期の苛政を思うとき、章の心は平静でいられなかったためでもある。康有為は満州人はすでに漢民族と同化しているというけれども、満州語を保持し、固有の宗教観も持っている。何よりも辮髪は漢民族も行うが、これは支配受容の証として強制されているだけであって本来漢民族固有のものではない。つまりこれは同化ではなく抑圧であることの証拠に他ならない、よって漢民族は満州人に復仇せねばならないと章は主張した。一言で言えば「駆除韃虜」をテーゼとすべきと説いたのである。章炳麟の主張は辛亥革命以前にあっては激烈そのものであったため、周囲と摩擦を引き起こさざるを得なかった。


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