竜樹 諒
たつき 諒
生誕 (1954-12-02) 1954年12月2日(69歳)
日本・神奈川県[1][2]
職業漫画家
活動期間1975年 - 1999年
2021年 - 現在
ジャンル少女漫画
サブカルチャー
代表作『私が見た未来[3]』
『私が見た未来 完全版[4]』
公式サイト無し
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竜樹 諒(たつき りょう、1954年〈昭和29年〉12月2日 - )は、日本の漫画家。女性。神奈川県出身[1]、横浜市在住[1]。別名義に「たつき 諒」がある[1]。 1954年(昭和29年)12月2日、神奈川県で生まれる[1][2]。 高校生の17歳のときに交通事故に遭ったことで、卒業後の仕事に「家でできて、生きた証を残せ、顔を出さずに済む仕事」として漫画家を目指した[5]。それから出版社への作品原稿の持ち込み
来歴
漫画製作のために記入していたアイデア・ノートをさらに拡大し、1978年(昭和53年)頃から睡眠中の夢の内容を記録し始める。1985年(昭和60年)からは一冊のノートに『夢の記録』と題した夢日記を絵と文章で記述してきた[7]。これがのちの“予言漫画”(cf. ) へと繋がっている。
1982年(昭和57年)には、公式ファンクラブが発足し、クラブ会報誌『クラッシュ』を創刊する[8]。
青年誌などでルビが付かないことから、1990年(平成2年)頃から「たつき諒」名義を多用し始める。
1998年(平成10年)9月、作品『白い手』の発表を最後に「充電期間」を名目に休業し、1999年(平成11年)に44歳で漫画家を一旦引退した[9]。
後述する単行本『私が見た未来』の話題が広まる前に、2011年(平成23年)から「たつき諒」の偽者がSNSなどで散見されたが、2020年(令和2年)頃から「不思議探偵社」のウェブサイトに悪質この上ない成り済ましが登場した[10]。この人物は、出版社にも働き掛け、2021年(令和3年)3月26日発売の週刊誌『FRIDAY 2021年4月9日号』(講談社)に「東日本大震災を的確に当てた「予言漫画」次のXデー」「『私が見た未来』の作者が緊急警鐘!幻の”予言漫画”に描かれた衝撃の未来」と題したインタビュー記事を載せ[11][12]、同年6月9日発売の月刊誌『ムー 2021年7月号[13]』(ワン・パブリッシング)には「漫画家「たつき諒」が富士山噴火を警告!!」と題した記事を載せるという暴挙に出た[14][15][16]。その上、飛鳥新社から『私が見た未来』の復刻版を同年7月に出版しようと画策していた。この頃、たつき諒本人の下には、親戚(甥・姪)から「(たつき諒が)マスコミで話題になっている」との連絡が入った[17]ため、たつき諒本人はただちに動いて飛鳥新社と連絡を取り、成り済まし犯が進めていた復刻版の発行を辞めさせた[18]。その上で、仕切り直して本人の承認の許、改めて発売を延期し、改訂を入れ、予言の解説を加えた『私が見た未来 完全版』を編集し、同年10月に発刊する運びとなった[19]。
2022年(令和4年)3月には、67歳にして、新たな漫画単行本が発刊された[20]。これには、過去の絶版作品のほか、新たな書き下ろし漫画も掲載されており、作家活動の再開が確認された[20]。
漫画単行本『私が見た未来』は、「たつき諒」名義で1999年(平成11年)7月に朝日ソノラマから刊行された作品集である[21]。この本は、1996年(平成8年)初出の表題作をはじめ1994年(平成6年)から1998年(平成10年)にかけて雑誌『ほんとにあった怖い話』(朝日ソノラマ刊)と『恐怖体験』(スコラ刊)に掲載された漫画をまとめて所収している。 著者は単行本『私が見た未来』が発売された年に漫画家を引退したが、同書の表紙に「大災害は2011年3月」との一文があることから、2011年(平成23年)3月11日に東日本大震災が発生すると、「今回の大震災を予言していた漫画がある」として注目を集めることとなった[1][22]。「大災害は2011年3月」という一文があるのは、単行本表紙の中に6枚描かれている「夢日記・夢の記録」の中の1枚であるが、この夢に関する記述は漫画本編には一切登場しない[22]。他の5枚の記述についても、夢が的中した予言は特に見当たらない[22]。 「大災害は2011年3月」が話題となった当時、本書は既に過去作品として入手困難な状態にあった。そのため、古本に10万円以上の高値が付き[21][23]、一時は50万円まで高騰した[24]。さらには、前述した「たつき諒」の偽アカウント所持者が独自の予言を流布してブームを煽ったため、復刻してほしいという意見が高まり、2021年(令和3年)10月2日に飛鳥新社から復刻・改訂版の『私が見た未来 完全版[4]』が発売された[25]。
単行本『私が見た未来』