立花隆
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その類なき知的欲求を幅広い分野に及ばせているところから「知の巨人」のニックネームを持つ[4]

1974年(昭和49年)、『文藝春秋』に「田中角栄研究?その金脈と人脈」を発表して田中金脈問題を暴いて田中角栄首相退陣のきっかけを作り、ジャーナリストとして不動の地位を築く。2007年平成19年)暮れ、膀胱がん手術を受けるが、その後も世界の最前線の研究者たちを取材し、がんの正体を根源的に見つめ直す活動を続けた[5][6]
来歴
生い立ち

1940年(昭和15年)、長崎県長崎市に生まれる。父は長崎の女学校教師で後に編集者を務め、母は羽仁もと子の信奉者で、クリスチャンの家庭。第二次世界大戦前の右翼思想家・橘孝三郎は、父のいとこに当たる。1942年(昭和17年)、父が文部省職員として北京師範学校副校長となったため、一家で中国・北京(当時は中華民国)へ渡る。

1946年(昭和21年)、引き揚げで日本へ戻り、一時母方の茨城県茨城郡那珂西に住み、のちに父の郷里である同県水戸市に移る。水戸では、近所だった池辺晋一郎の家と家族ぐるみで付き合いがあった[7]茨城師範学校茨城大学附属小学校中学校を経て、1956年(昭和31年)に水戸一高、さらに千葉県に移ったため東京都立上野高等学校への転入を経る。小学校時代から読書に熱中し、自らの読書遍歴を記した文章を残している[8]。また、中学時代は陸上競技にも熱中。俳優の梅宮辰夫・モータージャーナリストの徳大寺有恒は中学時代の先輩であり、3人とも陸上競技選手だった。

1959年(昭和34年)、東京大学文科二類へ入学。在学中は小説を書き、1960年(昭和35年)、イギリスで開かれた原水爆禁止世界会議に参加。卒業論文テーマはフランス哲学者メーヌ・ド・ビラン
雑誌記者として

1964年(昭和39年)、東京大学文学部フランス文学科卒業後、文藝春秋に入社[4]岩波書店NHKの試験も受けたが不合格だったという[9]。入社後は希望通り『週刊文春』に配属される。上司に堤尭がいた。先輩記者の導きで、文学青年時代から一転ノンフィクションを濫読して多大な影響を受けるが、最もやりたくないプロ野球の取材をさせられたことから3年足らずで文藝春秋を退社[10]

1967年(昭和42年)、東京大学文学部哲学科に学士入学。翌1968年(昭和43年)に東大紛争が勃発して休校となる。
ルポライターとして

東京大学休校中に、文春時代の仲間の誘いで文筆活動に入りルポライターとして活動を開始する。創刊時の雑誌『諸君!』に「生物学革命」「宇宙船地球号」や石油などをテーマとしてノンフィクションや評論を書く。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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