立教大学
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^ a b c 1859年(安政6年)に長崎でミッションを開設した当初から、高等教育を行う男子校(カレッジ)を設立することが常に日本における最重要課題であったと、ウィリアムズは1880年(明治13年)6月30日の江戸伝道主教の報告で語った。さらに、この報告当時、欧米の学識を熱心に取り込んでいるが、何が真理で何が偽りなのか判断できていない日本において、キリスト教に基づくカレッジ創設は喫緊の課題であり、教会のためになると強調した[10]
この課題は、翌年の1881年(明治14年)に東京で開催された在日米国聖公会宣教師会議で決議されることとなった。この中で、大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)で校長を務めていたテオドシウス・ティングによる日本人のカレッジ学生に日々1時間接する聖職宣教師と外国人教授4人を配した東京大学の文学コースに並ぶ学習課程を持つカレッジを創設する必要があることを訴えた論説が出席者たちの心を大きく捉え、伝道事業の徹底のために速やかにカレッジを設立することがメンバーの大半の賛成により可決された。この結果を受け、ジェームズ・ガーディナーの設計による校舎が東京・築地に建設され、1859年の長崎での私塾開設から約四半世紀経った1883年(明治16年)1月に、立教大学校(St. Paul's College, 6年制)が創設された[10]
^ a b c d 1854年(嘉永7年)の日米和親条約を端緒として洋学研究と教育の必要性が生じると、江戸幕府蕃書和解御用で行われていた洋書翻訳事業を独立させて、1855年(安政2年)に洋学所を九段下に開設。翌1856年(安政3年)、蕃書調所開成所の前身で東京大学東京外国語大学の源流)と改称した。さらに1858年(安政5年)7月の日米通商修好条約締結により、本格的に英語通訳の養成が必要となった。
既に1857年(安政4年)には、幕府は長崎奉行に命じ、長崎海軍伝習所のあった長崎西役所内に語学伝習所を設立していたが、日米通商修好条約締結の翌月の1858年(安政5年)8月には英語に特化した長崎英語伝習所が設立された。
次いで幕府の公式通詞たちは、長崎奉行から幕府の伝習所以外でも広く英語を学ぶことを命じられ、1858年9月(安政5年)に長崎に寄港した米国船ポウハタン付きの牧師ヘンリー・ウッドや、1859年(安政6年)1月に寄港した米国人マクゴーワン(Daniel Jerome Macgowan、瑪高温、マゴオン)らに英語を学んだ。
こうした中、1859年(安政6年)4月下旬の米国総領事タウンゼント・ハリスの長崎入りに合わせて、上海からジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズがそれぞれ長崎に来日し、ハリスの支援の下、長崎奉行・岡部長常からの要請で私塾を開設し、公式通詞たちに英学の教授を行うこととなった。
^ 日本におけるプロテスタント初の宣教師である米国聖公会ジョン・リギンズが長崎に来日する数日前の1859年4月下旬には、初代米国総領事タウンゼント・ハリスが長崎を訪問し、5月初めにハリスは、アメリカ人商人の一人でニューヨーク出身の実業家ジョン・G・ウォルシュ(ウォルシュ兄弟の2番目の弟)を長崎の米国領事に選任。ウォルシュは最初の長崎米国領事館を広馬場の日本人居住区に設立した。こうして、リギンズとウィリアムズの来日に際して、聖公会の信徒で日本への米国聖公会の学校設立の勧告と支援を行ってきたハリスも同時に長崎を訪れ、長崎でもアメリカの活動拠点の構築と整備を進め、日本とアメリカとの外交基盤を整えていった[15]。ハリスとウォルシュの支援により、リギンズは長崎奉行の要請から聖公会の長崎私塾(立教大学の源流)を開設し、ウィリアムズとともに早速英学教育を開始した。ハリスは、ニューヨーク市立大学の創設者で、ニューヨーク市の教育局長も務めた人物でもあり、日米外交の芽吹きの中で、教育者として立教大学の源流の創設に深く関わった[3]
また、リギンズとウィリアムズは、私邸や長崎大浦の妙行寺に置かれた英国領事館を使って外国人のための礼拝を開始し、1859年9月に来日した聖公会信徒で日本の近代化に大きく貢献するトーマス・グラバーも礼拝に参加した[16]。グラバーは幕末の志士たちと商取引を行い、ウィリアムズが教える私塾には多くの志士たちが学んだ。グラバー商会などとともに、ジョン・G・ウォルシュが兄とともに経営するウォルシュ商会も長崎で幕末の志士たちと商取引を行い、坂本龍馬亀山社中が1866年(慶應2年)に薩摩藩の後援で購入した艦船「太極丸」は、ウォルシュ商会のプロシア商人チョルチから購入している[17]。ウォルシュ商会は日本で初めて成功したアメリカ企業の一つである。
^ a b c d 明治中期には、立教築地キャンパス(現在の聖路加国際病院聖路加国際大学の場所)の近く、現在の聖路加ガーデンの場所にアメリカ公使館が建っていた。幕末の日米和親条約により、当初アメリカ領事館は、伊豆下田玉泉寺に置かれ、米国聖公会の信徒であり、日本への米国聖公会による学校開設を勧めたタウンゼント・ハリスが初代駐日領事として赴任した。
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