立教大学
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ a b c d 1854年(嘉永7年)の日米和親条約を端緒として洋学研究と教育の必要性が生じると、江戸幕府蕃書和解御用で行われていた洋書翻訳事業を独立させて、1855年(安政2年)に洋学所を九段下に開設。翌1856年(安政3年)、蕃書調所開成所の前身で東京大学東京外国語大学の源流)と改称した。さらに1858年(安政5年)7月の日米通商修好条約締結により、本格的に英語通訳の養成が必要となった。
既に1857年(安政4年)には、幕府は長崎奉行に命じ、長崎海軍伝習所のあった長崎西役所内に語学伝習所を設立していたが、日米通商修好条約締結の翌月の1858年(安政5年)8月には英語に特化した長崎英語伝習所が設立された。
次いで幕府の公式通詞たちは、長崎奉行から幕府の伝習所以外でも広く英語を学ぶことを命じられ、1858年9月(安政5年)に長崎に寄港した米国船ポウハタン付きの牧師ヘンリー・ウッドや、1859年(安政6年)1月に寄港した米国人マクゴーワン(Daniel Jerome Macgowan、瑪高温、マゴオン)らに英語を学んだ。
こうした中、1859年(安政6年)4月下旬の米国総領事タウンゼント・ハリスの長崎入りに合わせて、上海からジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズがそれぞれ長崎に来日し、ハリスの支援の下、長崎奉行・岡部長常からの要請で私塾を開設し、公式通詞たちに英学の教授を行うこととなった。
^ 日本におけるプロテスタント初の宣教師である米国聖公会ジョン・リギンズが長崎に来日する数日前の1859年4月下旬には、初代米国総領事タウンゼント・ハリスが長崎を訪問し、5月初めにハリスは、アメリカ人商人の一人でニューヨーク出身の実業家ジョン・G・ウォルシュ(ウォルシュ兄弟の2番目の弟)を長崎の米国領事に選任。ウォルシュは最初の長崎米国領事館を広馬場の日本人居住区に設立した。こうして、リギンズとウィリアムズの来日に際して、聖公会の信徒で日本への米国聖公会の学校設立の勧告と支援を行ってきたハリスも同時に長崎を訪れ、長崎でもアメリカの活動拠点の構築と整備を進め、日本とアメリカとの外交基盤を整えていった[15]。ハリスとウォルシュの支援により、リギンズは長崎奉行の要請から聖公会の長崎私塾(立教大学の源流)を開設し、ウィリアムズとともに早速英学教育を開始した。ハリスは、ニューヨーク市立大学の創設者で、ニューヨーク市の教育局長も務めた人物でもあり、日米外交の芽吹きの中で、教育者として立教大学の源流の創設に深く関わった[3]
また、リギンズとウィリアムズは、私邸や長崎大浦の妙行寺に置かれた英国領事館を使って外国人のための礼拝を開始し、1859年9月に来日した聖公会信徒で日本の近代化に大きく貢献するトーマス・グラバーも礼拝に参加した[16]。グラバーは幕末の志士たちと商取引を行い、ウィリアムズが教える私塾には多くの志士たちが学んだ。グラバー商会などとともに、ジョン・G・ウォルシュが兄とともに経営するウォルシュ商会も長崎で幕末の志士たちと商取引を行い、坂本龍馬亀山社中が1866年(慶應2年)に薩摩藩の後援で購入した艦船「太極丸」は、ウォルシュ商会のプロシア商人チョルチから購入している[17]。ウォルシュ商会は日本で初めて成功したアメリカ企業の一つである。
^ a b c d 明治中期には、立教築地キャンパス(現在の聖路加国際病院聖路加国際大学の場所)の近く、現在の聖路加ガーデンの場所にアメリカ公使館が建っていた。幕末の日米和親条約により、当初アメリカ領事館は、伊豆下田玉泉寺に置かれ、米国聖公会の信徒であり、日本への米国聖公会による学校開設を勧めたタウンゼント・ハリスが初代駐日領事として赴任した。その後、日米修好通商条約が結ばれ、ハリスは初代駐日公使となり、下田の領事館を引き払い、1859年(安政6年)、現在の東京元麻布善福寺にアメリカ公使館を開設。1863年(文久3年)5月、善福寺の建物が庫裏からの出火で消失したため、横浜の山手居留地に公使館施設を設けたり、関内居留地の海岸通り20番に開業したばかりのグランドホテルに公使が滞在するなどしたのち、1874年(明治7年)4月末または5月初め、アメリカ公使館は築地居留地1番・2番・21番・22番で構成される地所(現在の聖路加ガーデンの場所)に移転。(のちに3番も敷地に加えた。)1875年(明治8年)12月には、同地に公館を新築し形容を整えた。その後、築地の公使館は手狭となり、1890年(明治23年)3月、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転した[18][19][20]。(外務省調査月報 2013 No.1には、1890年(明治23年)5月15日まで、公使館は築地に置かれていたとある。)
築地のアメリカ公使館跡には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国の最初の13州を示す。8個の石標のうち3個は1984年(昭和59年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に設置されている。残る5個は、築地居留地時代を伝えるものとして中央区民文化財に登録されており、3個は聖路加国際病院敷地に、2個は聖路加ガーデンに設置されている。
1930年(昭和5年)5月26日には、ライフスナイダー総長が、赤坂のアメリカ大使館の定礎式で日米関係者が300人以上参加する中、司会進行と祈祷を行っている[21]1939年(昭和14年)には、日本で最初のアメリカ研究の機関として「アメリカ研究所」が設立された[22]
^ 1919年(大正8年)の立教大学池袋校舎落成式では、会場正面に大型の日米国旗を交差する中で開催され、大隈重信金子堅太郎渋沢栄一外務大臣などとともに駐日米国大使も出席し祝辞を述べ、日米両国の友好の証として式典が盛大に祝われた[14]。また、当時の卒業式などの学校行事においても、アメリカ国旗を日本国旗とともに会場に掲揚し、式典が行われた[23]
^ a b 2014年1月21日には池袋キャンパスで駐日米国大使館首席公使カート・トンを招いて「日米友好の木 ハナミズキ」の植樹式が開催された。植樹は日本から米国に3000本のサクラを寄贈してから100周年を記念して、米国民から日本への返礼として3000本のハナミズキを贈る取り組み「友好の木 ? ハナミズキ・イニシアチブ」の一環として行われた。同イニシアチブは、日米の国民同士の異文化および教育交流を体現するものとして、米国政府と日米交流財団が共同で設立した官民パートナーシップにより運営される。立教大学は米国聖公会から派遣された宣教師によって創設された学校で、2014年当時で140年に渡る米国との深い関係が続いていることから、学校法人としては初めて、40本のハナミズキの寄贈を受けた。また、日米両国の友好と親善に尽力された功績に敬意を表し、立教大学は1965年にライシャワー駐日大使、2000年にフォーリー駐日大使、2013年にルース駐日大使に名誉博士学位を授与している[24]
また、アメリカ・ワシントンD.C.ポトマック河畔へのサクラの苗木の寄贈は、聖公会の信徒であった尾崎行雄(憲政の神様)が東京市長時代の1912年(明治45年)にエリザ・シドモアの提案から高峰譲吉らと協力して行ったものであり、その返礼として日本に初めてハナミズキをもたらした[25][26]
^ a b c d e f 立教大学校は、1883年(明治16年)に米国式カレッジとして東京・築地に設立され、東京大学とともに明治中期の日本を代表する最高レベルの高等教育機関である[27]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:1046 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef