立教大学
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^ 1919年(大正8年)の立教大学池袋校舎落成式では、会場正面に大型の日米国旗を交差する中で開催され、大隈重信金子堅太郎渋沢栄一外務大臣などとともに駐日米国大使も出席し祝辞を述べ、日米両国の友好の証として式典が盛大に祝われた[14]。また、当時の卒業式などの学校行事においても、アメリカ国旗を日本国旗とともに会場に掲揚し、式典が行われた[23]
^ a b 2014年1月21日には池袋キャンパスで駐日米国大使館首席公使カート・トンを招いて「日米友好の木 ハナミズキ」の植樹式が開催された。植樹は日本から米国に3000本のサクラを寄贈してから100周年を記念して、米国民から日本への返礼として3000本のハナミズキを贈る取り組み「友好の木 ? ハナミズキ・イニシアチブ」の一環として行われた。同イニシアチブは、日米の国民同士の異文化および教育交流を体現するものとして、米国政府と日米交流財団が共同で設立した官民パートナーシップにより運営される。立教大学は米国聖公会から派遣された宣教師によって創設された学校で、2014年当時で140年に渡る米国との深い関係が続いていることから、学校法人としては初めて、40本のハナミズキの寄贈を受けた。また、日米両国の友好と親善に尽力された功績に敬意を表し、立教大学は1965年にライシャワー駐日大使、2000年にフォーリー駐日大使、2013年にルース駐日大使に名誉博士学位を授与している[24]
^ a b c d e f 立教大学校は、1883年(明治16年)に米国式カレッジとして東京・築地に設立され、東京大学とともに明治中期の日本を代表する最高レベルの高等教育機関である[25]。明治政府によりミッションスクール第一号として認可された[26]。これは1886年(明治19年)に公布された帝国大学令と1918年(大正7年)に公布された大学令によって制定され成立した大学よりも前に、教育令(第2次教育令・1880年/明治13年12月28日公布)によって設立・認可された日本における先駆けの大学(最高学府)であった[27]角帽モルタルボード型)を最初に着用して都内を闊歩したのは、立教大学校生といわれる[25]。気の利いた生徒はこの西洋風の角帽を被り、西洋の大学に入学したような心持であったという[28]。新校舎は美しい尖塔を有し、東京見物の人々も訪れるほどであった[25]。校舎は煉瓦造で、尖塔は銀座からも見え、当時の学生の大きな誇りとなっていた。また、これまで電気もガスもなく、初めてアセチリン瓦斯燈が輸入された当時であったが、講堂のランプは全て瓦斯燈を扱う商店の寄付により設置され、講堂の聴衆は明るく煌々たる光景に肝をつぶしたという[28]
カリキュラムは全て英語の教科書を用い、教員も主に外国人であった[25]。訳読と数学の先生だけ日本人であった[28]。英語の授業は最初は全く理解できなくても、不思議なことに1ヵ月もするとほぼ意味が分かるようになっていったという[28]。但し、ギリシア語ラテン語に代えて漢学も課されていたとされる[29]。代数幾何学、動物学、理科学、地質学、植物学、化学、天文学など多彩な理系・自然科学科目を教え、文系・人文科学社会科学科目とともにヨーロッパ中世以来のリベラル・アーツの伝統を色濃く引き継ぐアーツ・サイエンス教育を行った[30]。学生は熱心に勉強したとされ、苦学生は東京各所の家の2階を借り、英語の教授をして寄宿代を稼いだ。また紳士が三輪車や手車で大学校へ来て、生徒から英語を教わることもあり、立教の苦学生は日本の英語教育に貢献するところがあった[28]
当時、最高学府としての大学の名を有する高等教育機関は、1877年(明治10年)設立の東京大学と立教大学校のみで、「東京に大学校二あり、一は本郷に又た一は築地に在り」と呼ばれ、東京大学と立教大学校の二つをもって大学校の代表とし、日本屈指の教育機関であった。同時期、1877年(明治10年)に工学寮を改称して生まれた工部大学校(のちの東京大学工学部)もあったが、技術者養成の教育機関であった。また、1880年(明治13年)に開校した築地大学校も存在したが、1883年(明治16年)には横浜の先志学校東京一致神学校へ人材を供給することを目標に統合され、東京一致英和学校となり、大学という名称から変更している[25]。立教大学校は、欧化主義への反動から国粋主義が広がり出したことによるキリスト教への圧力や、日本の教育制度の変更などから、その後カレッジの進展を断念せざるを得ない状況となったが、1890年(明治23年)10月に日本の教育制度に合わせる対応をするなど、障壁を乗り越え、校名を立教学校として日本での教育活動を維持した[31]。また、当時カレッジの進展を断念した別の背景として、これまで中心的な人物であったウィリアムズが、1889年(明治22年)に主教を退任するとともに、チャプレンとして聖書講義を担当していた立教大学校と三一神学校を退任したこと。加えて、1887年(明治20年)9月に、これまで教頭や幹事として立教大学校を支えてきた貫元介が退任して山口に帰郷したが、貫から学校事務を引き継いだローやモリスは、学校事務の事情に精通していなかったことから、時代の波に乗れず学生が減少したという状況もあった[10]
上記のとおり、日本においてはアメリカ人の経営する大学は厳しい状況に置かれた一方、同じく米国聖公会によって中国・上海に置かれた姉妹校である聖ヨハネ大学(セント・ジョンズ大学)は、東洋のハーバード大学と呼ばれるまでに成長を遂げた。
^ ミッション系大学では同志社大学に次いで認可を受けた[32]
^ St.Paul's Universityの略称で、体育会応援団チアリーディング部の一部ユニフォームや体育会水泳部のマークなどで使用されている[34][35]
箱根駅伝などに出場する体育会陸上競技部のユニフォームなどにはRikkyo Universityの「R」の文字が使用される。2022年10月にZOZOTOWNとのコラボレーションで発売されたスウェットには「RU」のロゴが施されている[36]
^ 東京六大学の括り自体は、日本に現存する大学野球の対校リーグ戦では最も古い東京六大学野球連盟を発祥とする。
^ 「本気で勉強したくなる図書館」とは、大学側が用意したコンセプトではなく、学生のツイートから始まったコンセプトである。図書館の開館前に比べて、利用率は増えており、学習教育と研究の基盤になっている[48]
^ 立教グローバル/ローカルキャリア支援ネットワークの略称。
^ 立教大学校時代には、教員は主に外国人で、カリキュラムも全て英語の教科書が用いられていた[25]
^ 彼らは立教大学出身の新聞雑誌関係者で組織する立教大学の記者クラブである「アルファ會」にも所属し、大学新聞にも寄稿するなど活躍した[60]
^ 例として、ウィリアムズ主教が卒業したウィリアム&メアリー大学でも、主専攻+副専攻(メジャー、マイナー)の学部課程履修プログラムが設けられており、文系科目、理系科目に問わず、多くの副専攻が用意されている[61]。また別の例として、コーネル大学では、主専攻とともに多くの副専攻が設置されているのに加え、2つの主専攻を学ぶdual-degree programs(2重学位プログラム)があり、従来の部門の境界を超える学際的な履修プログラムが設けられている[62]
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