立憲民政党
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一方で、三菱財閥と密接な関係を持ち[30]、三菱は民政党の政治資金面での主要スポンサーとなった[31]
政綱

以下、綱領の内容である[22]
国民の総意を帝国議会に反映し天皇統治の下議会中心政治を徹底せしむべし。

国家の整調に由りて生産を旺盛にし分配を公正にし社会不安の禍根を芟除すべし。

国際正義を国交の上に貫徹し人種平等資源公開の原則を拡充すべし。

品性を陶冶し独創自発の個性を啓き学習の機会を均等にして進んで教育の実際化を期すべし。

立法、行政及地方自治に浸潤せる時代錯誤の陋習を打破して以て新興の気運に順応すべき改造の実現を期すべし。

歴史
結党

1927年(昭和2年)、政友会の田中義一内閣に対抗する形で前政権第1次若槻内閣)の与党であった憲政会と、内部対立から政友会を離党した床次竹二郎らによる政友本党が合併して成立[1]

同年6月1日、東京・上野精養軒にて結党式が開かれ、濱口雄幸を総裁とし、若槻禮次郎(前首相・憲政会総裁)・床次竹二郎(政友本党総裁)・山本達雄武富時敏を党顧問、櫻内幸雄を幹事長、安達謙蔵町田忠治小泉又次郎斎藤隆夫ら10名を総務とした。
政党政治と民政党内閣

1928年(昭和3年)2月20日に行われた第16回衆議院議員総選挙では、田中内閣の内相鈴木喜三郎から、「民政党が掲げる議会中心主義は憲法違反である」との誹謗と選挙干渉を受けるも政友会にわずか1議席差にまで迫る216議席を獲得して政府を追い込んだ[32]。それに対して与党・政友会は床次ら旧政友本党出身者に対して復党工作を行って床次ら30名余りの離党者を出す事に成功する。また、濱口に代わって大隈信常を新総裁に擁立しようとした小寺謙吉が除名される騒ぎも起きた。

だが、同年6月4日に発生した張作霖爆殺事件(いわゆる満州某重大事件)のために田中内閣が内閣総辞職に至ると、元老西園寺公望(元首相・元政友会総裁)は現状の政友会の政策の是非を問うていないことが政権崩壊の原因となったと考えて、野党第一党の民政党に政権を交代させた上で国民の信を問う方針を固めると、昭和天皇に濱口雄幸を次期首相として推薦した。

こうして1929年(昭和4年)7月2日に田中内閣は総辞職し濱口内閣が成立する。濱口は金解禁を断行した上で、「綱紀粛正」と「軍縮実現」を掲げ1930年(昭和5年)に第17回衆議院議員総選挙を行った。その結果、過半数を占める絶対多数の273議席を獲得した[33]

ところがロンドン海軍軍縮条約における「統帥権干犯問題」をきっかけに、同年11月14日に濱口は東京駅において右翼によって狙撃された。濱口の回復が思わしくないという事で1931年(昭和6年)4月4日に若槻禮次郎が総裁に就任して第2次若槻内閣が発足した。なお、濱口は同年8月26日に死亡する。ところが同年9月18日には満州事変が勃発、同じ頃にアメリカが発生した世界恐慌日本経済にも深刻な影響を与えるようになった。

そこで、内務大臣であった安達謙蔵は政友会に復党していた床次竹二郎らと組んで挙国一致内閣協力内閣運動)を提唱するが、これが閣内分裂を招いたため、同年12月13日に若槻内閣は倒れ犬養内閣が成立する。1932年(昭和7年)12月22日、安達とその支持者は民政党から脱党して新政党「国民同盟」を結党した。この影響で同年の第18回衆議院議員総選挙では結党以来最大の惨敗を喫した上に[34]、選挙中の同年2月に発生した血盟団事件で次期総裁の最有力候補だった前大蔵大臣井上準之助暗殺されてしまう[34]
中間内閣と軍部の台頭

ところが、1932年5月15日五・一五事件で政友会の犬養毅首相が暗殺されると、政党政治は終焉して軍人首班の中間内閣の時代(齋藤内閣岡田内閣)に入る。この中間内閣には民政党から2人ずつの閣僚(斎藤内閣…山本達雄(内務大臣)・永井柳太郎拓務大臣)、岡田内閣…町田忠治(商工大臣)・松田源治(文部大臣))が入閣した。だが、軍部の発言力の増大に比例するかのように政党の存在感は低下していくようになる。

そこで1933年(昭和8年)、町田忠治が主宰してシンクタンクである「政務調査館」を発足させ、その一方で宇垣一成陸軍大臣を擁して政友会との連携を図った。ところが犬養の死後に政友会総裁になったのは以前の選挙の際に民政党を違憲と発言した鈴木喜三郎であった事から民政党内部に反発が生じ、加えて鈴木も中間内閣そのものを否定して野党路線を選択した事から失敗に終わった。

加えて、若槻総裁が帝国議会で軍備拡張を批判して「骸骨が大砲を牽く」と発言した事が軍部や右翼の攻撃を招き、1934年(昭和9年)7月に若槻は総裁辞任に追い込まれた。余りの突然の総裁辞任に町田忠治が総務会長に就任して暫定的に党務を行い後継総裁の選出を行おうとするものの、結論に至らず結局町田がそのまま総裁に就任する事になった。

1936年(昭和11年)2月26日から発生した二・二六事件後の廣田内閣以後も林内閣を除いて閣僚(廣田内閣…川崎卓吉小川郷太郎(商工大臣)・頼母木桂吉逓信大臣)、第1次近衛内閣…永井柳太郎(逓信大臣)、平沼内閣…櫻内幸雄(農林大臣)、阿部内閣…永井柳太郎(逓信大臣)、米内内閣…櫻内幸雄(大蔵大臣)・勝正憲(逓信大臣)・第2次近衛内閣…小川郷太郎(鉄道大臣))を入閣させ、またライバルである政友会の分裂騒動も追い風となって衆議院の議席数でも第1党を維持してきたが、軍部の台頭の前にその発言力が低下していった。
解党して大政翼賛会へ合流

その頃、党内には2つの流れが存在した。一つは二・二六事件直後のいわゆる「粛軍演説」に代表される斎藤隆夫の軍部と対決してでも党是である議会政治を擁護しようとする立場と、もう一つは町田の元で幹事長を務めていた永井柳太郎に代表される軍部や革新官僚と結んで政治の主導権を確保する事を優先すべきだとする立場である。

永井は「反政党」の立場を取る林内閣に対して一方的支持を決定したが、政友会や党内部からも強い非難を浴びた。だが、日中戦争開始直後から当時入閣していた永井とそのグループを支持する政府・軍部の動きが盛んになり、国家総動員法の審議では当初は反対論を唱えながら最終的には賛成に回るなど、親軍色を強めていった。

そして、1940年2月、斎藤隆夫のいわゆる「反軍演説」問題の際に民政党が自分の党の重鎮である斎藤の衆議院除名に賛成した事によって、党の保身のために軍部の圧力に屈して自党議員を見捨てたとして内外の信任を失って内部から崩壊を始め、次いで第2次近衛内閣近衛文麿首相自らの新党(いわゆる「近衛新体制」)が盛り上がると、同年7月25日に永井グループ35名は新党への合流を主張して離党する[2]。一方、町田総裁ら主流派は久原房之助鳩山一郎ら政友会正統派との合同を画策し、これに失敗すると今度は近衛内閣と軍部の政策を事実上全追認する党綱領を出して解党だけは防ごうとするが、同年8月15日に解党し、大政翼賛会に合流した[2]


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