立憲政友会
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政友会の特徴は同党の成立趣意書にもあるように、「余等同志は国家に対する政党の責任を重んじ、専ら公益を目的として行動」するのであって、「国運を進め文明を扶植」するため与論を指導し、地方公共施設の建設にも公益を最優先させる「国家公党」を謳った点である[18]。立憲政友党ではなく「会」を称したのも、国家利益の優先や国家との一体感を強調する初代総裁・伊藤博文の政党観に由来するもので、政党に対する国家の優位性を表している[19][20]。国民の私的な利益を追求する民党を政党と言うならば、政友会はこれらを抑える「反政党」的な政党だった[19][20]

当時次第に増加していた実業家たちを積極的に取り込むことで商工業ひいては国家の発展を目指した伊藤は、従来は地主だったが寄生地主化して実業家になり都市部に住むようになった市議会議員・商業会議所の会頭・会社社長弁護士銀行頭取などに入党を勧誘した[18]西園寺内閣下では鉄道の国有化や新設、築港、学校建設など積極政策を展開し、その利権投与によって党員や周辺の民衆を惹き付けて党勢拡張に成功[21]三井財閥安田財閥渋沢財閥などの大財閥の支持も得た[22]。その上で、個人の権利自由の保全や友好外交、国防充実、教育振興、産業発展、交通網の充実などを掲げた[18]。特に犬養総裁時代では経済を中心とする平和的な対外政策「産業立国主義」[注 2]が標榜された[23]。他方、政友会の主力な支持基盤に地方の地主がいたこともあり、地方自治の尊重や地方分権も掲げられた[24][25]
歴史
前史

大日本帝国憲法施政下の日本においては、明治維新において政府を組織した西南雄藩およびその縁者(いわゆる藩閥)が政権を独占していたが、帝国議会創設以降、衆議院にて多数を確保した自由民権運動勢力(民党)の協賛なしには予算、法律が成立せず、実際に時の藩閥内閣は、民党と個別に連携、妥協を行うか、あるいは政権運営に失敗して退陣を余儀なくされた。

藩閥の首脳陣である元老の中では、伊藤博文筆頭元老が、藩閥と政党の対立を前提とした方向性(超然主義)からの脱却、政党内閣制への移行を模索していた。特に、第2次伊藤内閣で一時的に連立を組んでいた憲政党(旧自由党系)との連携を深め、1900年(明治33年)、時の第2次山縣内閣で憲政党が連立を離脱するのと前後して、憲政党の実務を取り仕切っていた星亨らと連携、「伊藤新党」の結党準備を行っていた。憲政党の他、帝国党・日吉倶楽部などの会派の賛同を得て、また盟友の井上馨元老の伝手で実業界の賛同も得て、その他各界名士への入党勧誘も行われた。伊藤は政府要職を辞し、明治天皇からは勅許とともに、金2万円が下賜されている。
結党

1900年(明治33年)9月15日、伊藤を初代総裁として、立憲政友会が結党された(結党時点で衆議院152議席)。この時点の会則では総裁に専制的な権限が与えられており、役員人選も総裁の一任で行う形式であった。

直後の10月19日、第4次伊藤内閣が発足する。これは、政党内閣に良い印象を持っていなかった山縣有朋元老が、伊藤総裁への意趣返しとして、首相の座を辞任、政党の体制が整っていない状態の政友会に政権を押し付けるという算段であった。内閣の陸相海相外相以外の閣僚が政友会員で構成されていた。しかし、この政党内閣は貴族院の反発を招き、東京市疑獄事件で星が逓相を辞職するに追い込まれたほか、1901年3月、義和団の乱の軍費捻出のための増税案を一時否決する(最終的に成立)。結局伊藤内閣は、渡辺国武蔵相が閣内不一致を引き起こしたことにより、1年足らずで内閣総辞職した。後任の大命降下を受けた井上馨元老は、引き続き政友会を政権与党とする考えであったが、財界の協力を得られずに断念。藩閥内の山縣直系の桂太郎が組閣(第1次桂内閣)、政友会は野党に転じる。
桂園時代詳細は「桂園時代」を参照

桂内閣の成立後、伊藤総裁は、日露情勢の打開、欧米列強との外交交渉を行うために、外遊の旅に出る。伊藤総裁は筆頭元老という立場もあり、桂内閣を支援する立場にあったが、留守を預かる原敬松田正久ら政友会幹部は、政府攻撃に回る。11月に外債未達が発生すると、政友会は、隈板内閣の崩壊以来犬猿の仲であった第二党の憲政本党と桂内閣攻撃で提携する。この時点では党内では政府との交渉を続けるべしとの意見も多く、党内は二つに割れた。連絡を受けた伊藤総裁は外遊先より極秘に電報を打ち、倒閣を見合わせるよう訓示を出す。藩閥政権中枢および党幹部らがこれを回覧したのち、党幹部は矛を収めることを決意、藩閥側は政友会内の反対派を切り崩し、対立は一旦解消された[26]

1902年8月10日、任期満了に伴う第7回衆議院議員総選挙が行われ、政友会は引き続き第一党を維持する。選挙後の議会では、地租増徴の継続を巡り、政友会は再び憲政本党と連携して対立、伊藤総裁もこれを抑えられなくなる。同年末、衆議院解散されるが、桂内閣は打開の術として、桂首相が伊藤総裁を直接一本釣りにして、伊藤総裁は一部予算組み替えを条件に、増徴継続を容認する。1903年3月1日、第8回衆議院議員総選挙にて、政友会は再び第一党を維持するが、ほどなく伊藤の密約が発覚する。政友会は伊藤の地租継続の密約を容認するが、代償として党規約の改正、総裁専制からの脱却を要求。伊藤はこれを受け入れる。更に7月12日、元老兼野党総裁という伊藤の立場の扱いづらさ、伊藤が党内をまとめ切れていないという現状を解消すべく、藩閥首脳、党幹部の総意という形で、伊藤は祭り上げの形で枢密院議長に転出。入れ替わりに西園寺公望枢相が政友会総裁に迎え入れられる[27]

以降、桂率いる藩閥と、西園寺を総裁に戴く政友会が、妥協しつつ安定的に政権を運営する時代が、約10年間にわたり継続する(桂園時代)。この間、政友会は原の党務の下、衆議院第一党を維持し続ける。

1904年2月、日露戦争勃発。政友会は、桂内閣の戦争遂行に協力したが、同年11月頃より、西園寺・原・松田の幹部3人が桂とひそかに接触、戦後は政友会に政権を譲る方向で話をまとめる。1905年8月28日にポーツマス条約が締結されると、これに反対する民衆の暴動(日比谷焼き討ち事件)が発生したが、政友会は原の引き締めによりこれに加わらなかった。1906年1月7日、第1次西園寺内閣が成立する[28]

桂園時代の政友会は、西園寺公望、原敬、松田正久の三名による集団指導体制で運営された。堂上公家の生まれである西園寺が山縣や桂ら藩閥との交渉窓口や、自身の組閣などで対外的に党を代表、原は西園寺に代わって党務を統括、松田は党内に声望があり、党内の不満分子の取りまとめを担っていた[29]

第1次西園寺内閣は、年来の主張であった鉄道国有化などを実現する。1908年5月15日、第10回衆議院議員総選挙において、政友会は過半数を確保する。しかしこの直後、赤旗事件が発生、内閣の社会主義取り締まりの不備が山縣ら藩閥陣営から攻撃を受け、西園寺は総辞職を決意。後継には桂を奏請し、7月12日、第2次桂内閣が発足する。第2次桂内閣では、当初は野党の立ち位置であったが、1906年に憲政本党(衆議院第2党)を中心に非政友会党派の合同の機運が持ち上がると(のちに立憲国民党が結党される)、桂首相の求めによって、政友会は与党復帰する[30]

以降、再度の政権授受について、桂と原の間で交渉がもたれたが、1910年に大逆事件が明るみに出たことにより、西園寺内閣を攻撃した藩閥はメンツを失い、原は桂の政界引退の言質を取る。1910年8月30日、第2次西園寺内閣が成立する。1912年5月15日、第11回衆議院議員総選挙では、引き続き過半数を維持する。


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