立憲主義
[Wikipedia|▼Menu]
このような国際状況下、フランスは、帝政を経験し、政治的な混乱を極める中で、共和制へ移行していく。その過程で、ナシオン主権論をとるか、それともプープル主権論をとるかが、統治構造のあり方を変えるものとして議論されるようになった[10]

他方、英国では、16世紀から王権神授説に基づく国王主権が主張されるようになっていったが、マグナ・カルタ以来の中世的伝統を受けて、これに対抗するかのように法の支配の概念が16世紀から17世紀にかけて確立されていった。その影響の下、1688年名誉革命を経て、1714年ジョージ1世の治世に立憲君主制が確立する。そこでは、フランスとは対極的に長い歴史を経て穏健な形で君主の権力を制限することができたことから、国民主権の概念をとる必要もなく、むしろ貴族院と庶民院という議会内部での権力の抑制が重視されることになって、議会主権の原則が確立された[10]

もっとも、ここで看過してはならないのは、英国での近代的立憲主義の確立がマグナ・カルタやアーブロース宣言にみられるような一見中世的な古典的立憲主義の復活という形をとりながらも、実際にはロック社会契約説抵抗権に支えられた信託に基づく人民主権論という近代的な思想に支えられていたことである[11]

その後、バージニアでは1776年、ロックの人民主権論を背景に、憎むべき耐え難い専政を布いたジョージ3世を告発し、このような契約違反を理由に信託に基づく国王の主権を人民の元へ取り戻すという形で、人民主権論をとるバージニア憲法が成立し、これを受けて、アメリカ合衆国では、「法の支配」を実際の明文憲法の起草にあたって根幹に据えたアメリカ合衆国憲法1788年に成立する。われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある。 ? 1776年ケンタッキー州およびバージニア州決議にてトーマス・ジェファーソン

もっとも、アメリカ法では、法の支配の伝統に基づき、フランスにおける主権者の一般意志の表明による法律の至高性といったルソー的な人民主権論は忌避されており、かかるフランス流のルソー・ジャコバン型国家観と対極的な、多数の私的な団体が混在する多層的な多元的社会を背景とした市民社会主導型のトクヴィル・アメリカ型国家観が存在するとの指摘がある[12]
外見的立憲主義

フランス革命、名誉革命という立憲主義の波の中、フランスと英国から国際的圧力を受けていた資本主義後進国のプロイセンドイツでも、人権・自由の保障を求める三月革命が起るが、前期的資本を上からの革命によって産業資本へ転化させようとする流れによって、三月革命は頓挫を余儀なくされ、1871年ビスマルク憲法(ドイツ帝国憲法)によって立憲君主国としてドイツの統一が実現し、ドイツ帝国が成立する。日本でも、ドイツと同じ流れの中で、明治維新が起こり、1889年大日本帝国憲法が成立するが、ドイツ帝国憲法と大日本帝国憲法は、いずれも旧体制の機構の温存こそが目的であって、人権や自由の保障を目的とするものではなく、そこでの権利は恩典的な性質のものとされたことから、外見的立憲主義による憲法と呼ばれることになる[13]

このうち、ドイツでは実際にも親政が行われ、伝統的な支配体制がある程度機能していた。他方、日本では天皇大権は当初から有名無実であり、政府が「天皇陛下の名において」権限を振るう状態で、憲法の規定と政治の実態がはなはだしく乖離していた。美濃部達吉ら「立憲学派」は、国家法人説天皇機関説に基づき、憲法による天皇大権の制限を主張したが[14]、その矛盾が天皇機関説事件統帥権干犯問題として噴出することになる。
立憲主義の内容


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef