立命館土曜講座
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歴史「立命館草創の地」記念碑
京都法政学校は、東三本木通にあった料亭「清輝楼」を仮学舎とした。現在跡地には記念碑が建てられている。京都法政大学(1905-08年頃)[9]
上京区清和院町口寺町東入中御霊中川小十郎ゆかりの泰山竹」(衣笠キャンパス中央広場)
学園創立者 中川小十郎は竹筆作りが得意で、西園寺公望から「竹筆老兄」と呼ばれるほどの名人だった。西園寺が「坐漁荘」(静岡県)に移り住む1920年頃、台湾銀行頭取として遠く台湾の地にあった中川は、静岡を訪れる際の常宿「一碧楼水口屋」に、台湾から持ち帰った泰山竹を寄贈・移植した。写真の竹は、このときの竹の一部が衣笠に移植されたもの。中川小十郎の胸像と立命館扁額(西園寺公望揮毫)学校法人立命館・学祖西園寺公望の石膏像「立命館」大扁額(1905年寄贈)
西園寺公望が自ら筆をとって立命館に与えたもの。「立命館」の3文字を大書、以下 75文字のゆかりを附記した。1908年(明治41年)の火災で焼失してしまったため現存せず、写真が伝わっているのみである。「立命館」大扁額(1918年寄贈)
焼失した大扁額の代わりとして、西園寺公望が新たに揮毫して学園に贈ったもの。1930年代の広小路学舎国清殿(旧・中央講堂)立命館日満高等工科学校広小路学舎の全景立命会館(旧広小路学生会館)
略歴

1869年西園寺公望私塾立命館を創設。しかし、京都府庁太政官留守官)の差留命令により1年弱で閉鎖された。西園寺の秘書官であった中川小十郎が西園寺の意志を継ぎ、1900年に向学心を持つ勤労青年のために勉学の機会を与えるとともに、京都帝国大学教員の経済支援を兼ねた夜間学校として京都法政学校を設立。京都市上京区東三本木丸太町にあった料亭清輝楼」(「吉田屋」の近隣にあった)を仮の校舎とした。

他方、1889年に、京都法学校(きょうとほうがっこう)が、京都市下京区寺町通四条下ル大雲院内に設立されている。これは、法律学および経済学を教授することを目的に設立された私立学校で、校主には司法省法学校卒業後、京都始審裁判所に勤務した山崎恵純が就任。この他、名誉員に京都府知事大審院評定官、京都始審裁判所所長、同検事、京都府警部長らが就いた。しかし、その後、入学希望者の増加に対応しきれなくなり、京都法政学校に事実上引き継がれた。山崎恵純は引き続き京都法政学校の教授を務めた。

現在の立命館大学では、京都法政学校が設立された1900年を創立と、私塾立命館が開設された1869年を立命館の創始としている。
西園寺公望との関係

私塾立命館の閉鎖をたいそう残念がった西園寺公望は、同私塾の復興を誓った。その意志を継いだのは彼の秘書官、中川小十郎だった。中川に対して西園寺は協力を惜しまず、自らの政治的人脈を利用して様々な形で支援を行った。西園寺の庶弟末弘威麿が学園幹事に就任し、同じく実弟の住友財閥当主徳大寺隆麿住友友純)は大口の寄付を行った。さらに西園寺家の家紋である「左三つ巴」の旗を立命館学園が使用することを許可し、実際に使用されていた。そして大学昇格に必要な書籍を寄付するなど、物理的な面でも支援を惜しまなかった。また、愛新覚羅溥儀からの立命館への巨額の寄付(衣笠キャンパスは溥儀の寄付により作られた)も、西園寺の人脈が生み出した結果である。

中川が「立命館」の名称を用いることを西園寺に申し出た際、西園寺は『立命館』の名称と精神の継承(立命館の再興)を大いに喜び、『立命館と由緒』の大扁額を与えた。後に西園寺は「余が建設せる立命館の名称と精神を継承せる貴学」と現在の立命館大学のことを述べ、自分が作った立命館が再興し、受け継がれている事を喜んだ(原文:「明治ノ初メニ於イテ余ガ建設セル立命館ノ名称ト精神ヲ継承セル貴学ガ益々発展シテ国家ノ進運ニ貢献スルコト大ナルベキヲ祈ル」(1935年(昭和10年))[10]

西園寺は専門学校令により創立された京都法政大学が大学令による大学への昇格条件を満たすため、多数の書籍を寄付した。これらの書籍は現在も「西園寺文庫」として保存されている。初めての寄贈は1925年5月に行われ、英仏書187冊[11]であった。その後、1930年10月16日和漢書約300冊[11]1938年6月には西園寺家伝来の和綴本739部881冊[11]が寄贈された。これらの和綴書には、宮中儀式や有職故実関係、改元記録、和歌関係などの貴重な文書が含まれている[11]。そして、1940年5月の最後の寄贈は和漢書6,671冊で、西園寺が特に愛読していたと思われるものが大量に含まれている[11]

1932年、83歳の西園寺は人生最後の京都訪問を行った。その際、京都市上京区の立命館大学広小路学舎を訪問した。9月22日の朝、広小路学舎を訪れた西園寺は、校舎ホールに飾られていた自筆の『立命館』の扁額に気が付くとしばらくの間、目を留めたと伝えられている[12]

西園寺の私塾との間に学校組織としての連続性はないものの、彼が没した1940年に財団法人立命館は西園寺を「学祖」と定めた。そのため、西園寺家との関係は学校法人立命館のみならず、立命館大学とも続いており、大学の行事に西園寺家の人々が出席している。



年表

1869年明治02年) - 西園寺公望私塾立命館を創立。

1870年(明治03年) - 京都府庁(太政官留守官)の差留命令により私塾立命館閉鎖。

1889年(明治22年) - 京都始審裁判所に勤務していた山崎恵純らが京都法学校を設立。

以上学校法人立命館に先行する前史

1900年(明治33年)5月 - 中川小十郎京都法政学校を設立。京都法学校を吸収。

1901年(明治34年)12月 - 西園寺の実弟・住友友純からの寄付などで、ようやく広小路(上京区清和院口寺町東入ル)に校舎を新築。

1902年(明治35年)

1月 - 講義録を年1回発行。

9月 - 附属出版部設置。


1903年(明治36年)

7月 - 第1回卒業式を挙行。

9月 - 専門学校令による「私立京都法政専門学校」に組織変更。

10月 - 東方語学校設置。


1904年(明治37年)9月 - 専門学校令による「私立京都法政大学」の設立。大学部(法律学科、経済学科、予科)-昼間制、専門学部(法律科、行政科、経済科、高等研究科)-夜間制を設置。初代学長に富井政章が就任。

1905年(明治38年)

4月 - 西園寺が1869年(明治2年)に創設した私塾立命館の名称継承の許諾を得るとともに、西園寺直筆の「立命館」の3文字を大書、75文字のゆかりを付記した大扁額を寄贈される。

5月 - 五條警察署旧庁舎の払い下げを受けて校舎の増築を行う[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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