空襲
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航空作戦において空襲という用語は戦略的、作戦的、戦術的な局面にわたって幅広く使用されるが、その攻撃の形態から空挺作戦(Airborne/Airlift)、急襲(Raid)、特殊作戦(special operations)、航空攻撃(air attack)の四つの種類に区分される[1]
爆撃

空襲の主な方法に爆撃がある。爆撃は目的によって「戦術爆撃」と「戦略爆撃」に区別される。「戦術爆撃」が、戦場で敵の戦闘部隊を叩いて直接戦局を有利にすることを目的とするのに対し、「戦略爆撃」は、戦場から離れた敵国領土占領地を攻撃する場合が多く、工場油田などの施設を破壊する「精密爆撃」と、住宅地商業地を破壊して敵国民の士気を喪失させる「都市爆撃」とに分けられる。 「都市爆撃」は、「無差別爆撃」「恐怖爆撃」「地域爆撃」などさまざまに呼ばれ、「無差別爆撃」という呼び名が最も普及している[2]

爆撃には専用の航空爆弾爆弾投下装置、照準器爆撃機などさまざまな装備が使用される。爆撃の戦術も、水平爆撃急降下爆撃、緩降下爆撃、反跳爆撃など多数存在する。航空機で目標に体当たりする航空特攻という方法もある。

艦船に対する空襲で用いられたのが、航空魚雷を使用した雷撃である。水線下に損害を与えられる空襲の方法として第二次世界大戦中は有力であったが、空対艦ミサイルに取って代わられた。戦略爆撃の一環として、港湾航路の封鎖を企図して機雷を投下して海運による物流を麻痺させる方法もある。

航空機に装備するロケット弾ミサイルの技術が進むと、空襲の手段として利用されるようになった。無誘導のロケット弾は、複数をロケット弾ポッドの形で航空機に搭載することが多く、戦術目標に対する近接航空支援などに用いられる。攻撃ヘリコプターが搭載する対戦車ミサイルによる空襲は、対戦車兵器として極めて有力な存在である。空中発射式の巡航ミサイルを使用しての攻撃は、命中精度が相当に高い一方で、有人の母機が反撃を受ける危険が爆撃よりも小さい利点がある。対艦攻撃手段としても各種の空対艦ミサイルが用いられる。航空機によらず、地上から発射される地対地ミサイルによる攻撃も、広い意味での空襲として使用される。長射程の地対地ミサイルは、戦略爆撃の有力な手段である。
その他

爆撃と並んで古くから用いられてきたのが、航空機搭載の機関銃で地上目標を攻撃する機銃掃射である。空対空戦闘用に装備された機関銃をそのまま流用して攻撃を行うことができ、車両や人間などの小型の移動物体に対する簡便な攻撃手段として使用されてきた。地上への機銃掃射を重視した攻撃機攻撃ヘリコプターもある。機関銃や機関砲にとどまらず、より大口径大砲までを航空機に搭載した例もある。75mm砲を積んだB-25榴弾砲を積んだガンシップの一種などがある。

相手国民の戦意や兵士士気喪失を狙ったプロパガンダとして伝単(宣伝ビラ)投下もある。
ビデオ

米国AH-64 アパッチの空襲 、イラク武装勢力を撃つ(2004年)[3]

AH-64 アパッチターリバーンアフガニスタン

歴史イタリア陸軍航空隊による世界初の航空爆撃(1911年)

第一次世界大戦以前から気球飛行船、初期の航空機が軍事作戦に投入され始めた。遠方まで見通せることを利用して地上作戦に協力するための偵察や捜索、指揮の連絡、砲兵協力が中心であったが、爆撃も試みられている。ただ、これらはまだ航空戦略、航空戦術には値しないものだった[4]

1849年、オーストリア帝国ヴェネツィアを気球と風船爆弾で攻撃したのが史上初の爆撃である。1871年にはパリコミューンに対してフランス政府が気球から伝単を投下して降伏を迫っている。

バルカン半島と北アフリカでの植民地戦争からイタリアがトルコ領リビアの植民地化を目指して発生した伊土戦争で、イタリアは9機の飛行機と2機の飛行船を派遣し、飛行機を戦争の兵器として実戦で初めて使用し、1911年10月26日、伊軍の飛行機が手榴弾を投下し、これが飛行機による史上初の空爆となった。この空襲はトルコ・アラブの拠点に対して続けられ、11月6日にイタリア参謀本部は「爆撃はアラブに対して驚異的な心理的効果をあげた」と報告した[5]。1912年から1913年にかけて発生したバルカン戦争では、ブルガリアが22ポンド爆弾を開発して本格的な都市爆撃を行った[6]
第一次世界大戦

1914年、第一次大戦が開始すると爆撃は逐次試みられた。ドイツ機による1914年8月30日のパリ爆撃(爆弾の投下)[7]1915年の飛行船での爆撃、1917年の英本土爆撃が行われ、それに対しイギリスフランスも報復爆撃を行った[8]。1915年後半になると飛行機戦闘機爆撃機という分科機能が現れた[9]

日本による最初の爆撃は、1914年9月青島の戦いにおいて海軍モーリスファルマン式4機で青島市街に対して行われた[10]。陸軍からも青島派遣航空隊が出動し、陸海による地上部隊援護、空中偵察が行われ、9月27日に日本陸軍で最初の空爆がドイツ艦艇に対して実施された。命中はしなかったが、心理的効果があった[11]

1916年ヴェルダンの戦いフランス軍機関銃射撃、爆弾投下でドイツ軍の行軍縦隊、予備隊などを攻撃し戦果を上げた。これによって低空からの対地攻撃など偵察機、駆逐機で歩兵突撃を支援する航空戦術が広がる[12]

イギリス空軍参謀長ヒュー・トレンチャードは独立した爆撃機集団の必要を各界に説き、次の戦争に生き残るためにイギリスに必要なのは「敵の銃後を破壊するための強力な爆撃機集団。敵住民の戦意と戦争継続の意思を低下させるための爆撃機による攻撃」だと主張した[13]。1919年、トレンチャードは、植民地の法と秩序は在来の守備隊よりも機動力の優れた空軍によるほうが安上がりで効果的に維持できるという旨を述べて、植民地での使用の経済的効果にも注目した[6]。1920年、イラクがイギリスに委任統治されることが伝わるとイラクで反乱が発生、その鎮圧が始まり、1921年3月に英植民相チャーチルのもとカイロ会議が開かれる。その席上で、トレンチャードはイギリス空軍(RAF)がイラクでの軍事作戦を統括すること、作戦軍の主力を空軍とすることを正式に提案した[14]。反乱に対しRAFが4個飛行中隊を派遣して鎮圧に貢献したこともあるが、トレンチャードの提案が歓迎されたのはそれ以上に、「空からの統治」が安上がりで済むと信じられたためであった。提案は採用され、1922年10月1日イラクにおける軍権は正式にRAFに渡ってイギリス陸軍は撤退して、RAFに属する8個航空部隊と4個装甲車連隊が守備軍となった[15]。後にトレンチャードはケニア、ウガンダなどアフリカ植民地でもRAFが防衛の責任を持つことを提案した。こうして、「空からの統治」は、東アフリカからインドビルマに至るまで、イギリスの植民地支配の恒常的な手段となった。納税拒否のような非協力的な行為にも空軍が出動して懲罰作戦を行った[16]

1921年航空戦力の本質を攻勢とし空中からの決定的破壊攻撃を説いたジュリオ・ドゥーエイタリア)の『制空』が発刊され、世界的反響を生んだ[17]


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