空海
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^ 空海の出生月日が6月15日であることを裏付ける史料は確認されておらず、「付会の可能性が高い」と多くの空海関係書でも言及されている[7]
^ 『聾瞽指帰』は、序文と巻末の十韻詩が『三教指帰』とは異なるが、本文は同一。
^ 太政官符の得度年については延暦22年が多いが醍醐寺の聖賢『高野大師御広伝』写しでは延暦23年としている[10]
^ 安然『真言宗教時義』は「薬生」との記述もあり[12]、中国語の能力の高さ[13]との関連は厳密には不詳。
^ 空海が朝廷に献上する経典の目録「御請来目録」に「闕期の罪、死して余り有りと雖も、ひそかに喜ぶ得がたき法を生きて将来せることを」 と書いてり、規則違反で「闕期の罪」に問われたともあるが[19] 、遣唐使判官の承認での経由と唐朝短縮許可という正規の手続きを経ての謹慎の扱いでもある。これを謙譲的な文言とする見方もある[20]
^ 真済に仮託して10世紀ごろ書かれたとするのが通説となっている。
^ 映画の制作に当たり、十八派に分断されていた真言宗が「祖師のもと一致団結すべし」という機運が盛り上がり、宗派を縦断した映画制作委員会が結成される。
^ 『経国集』の全20巻中、伝存するのは梵門(仏教詩部門)を収めた巻十を含む6巻しかなく、全容が不明であることを考慮しても、空海の詩は仏教詩だけでなく、雑詠の巻十一、巻十三にもある。
^ 史実としては、南側の複数の門を担当している。東側の諸門は嵯峨帝自身が、北側を橘逸勢が、西側を(三筆に数えられていない)小野美材が担当。

出典^ “ ⇒弘法大師の誕生と歴史”. 高野山真言宗 総本山金剛峯寺. 2019年1月18日閲覧。
^ 得度の延暦24年太政官符も俗名「眞魚」とする。
^ 『沙門空海』(筑摩書房)、『空海辞典』(東京堂出版)、『真言密教の本』(学研)
^ 『続日本後紀』承和3年(836年)2月紀。
^ 佐藤良盛『わが家の宗教 真言宗』、大法輪閣、1988、p.38
^ 八尋舜右『物語と史跡を訪ねて 空海』、成美堂出版、1984、p.11(本文)、p.214(年表)。
^ 上山春平『空海』、朝日新聞社(朝日選書)、1992、p.49。竹内信夫『空海入門』、筑摩書房(ちくま新書)、1997、p.79。
^ “ ⇒007 平城京の寄宿先「佐伯院」|空海誕生 -エンサイクロメディア空海-”. 密教21フォーラム. 2019年1月18日閲覧。
^ 頼富 2015, p. 76.
^ 頼富 2015, p. 78高木、元校訂
^ 頼富 2015, p. 77.
^ 東野治之 2007, pp. 111?118.
^ 石田実洋 2011, pp. 222?223.
^ 空海「遍照発揮性霊集」。
^ 渡辺照宏宮坂宥勝『沙門空海』筑摩叢書 1967年 pp.69、242
^ 一条真也『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)6ページ
^ a b 渡辺照宏宮坂宥勝『沙門空海』筑摩叢書 1967年 pp.87-92
^ 平山徳一『五島史と民俗』(私家版 1989年)[要ページ番号]
^ 松長有慶『空海・心の眼をひらく - 弘法大師の生涯と密教』 大法輪閣 2002年 p,106、高木、元, 岡村圭真『密教の聖者空海』<日本の名僧4> 吉川弘文館 2003年 p.72 など
^ 宮坂宥勝『空海の人生と思想』春秋社 1976年 p.26
^ 入澤宣幸『ビジュアル百科 日本史1200人』(西東社)35頁

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