空母機動部隊
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アルジェリア戦争でフランス軍は40万人を超える大軍を動員したが、駐留軍14個師団の内10個師団は指定された地域に張り付け、その地域内で警備とゲリラの平定を担当していた。残りの2個機甲師団と2個空挺師団が機動部隊として運用され、主要都市部やゲリラの篭る山岳地帯からサハラ砂漠モロッコチュニジア国境地帯など縦横無尽に展開し、貼り付け師団を補完する形で状況に応じ各地で作戦した。

なお、相対的に優れた機動力を持つ騎兵部隊や機甲部隊や機械化部隊および航空部隊などを総称して、機動部隊と呼ぶこともある。第二次世界大戦時の日本陸軍エアボーン部隊(挺進部隊)はその創設にあたって、陸軍全部隊から精鋭が募集されたが、秘匿性を維持するために「空挺部隊・落下傘部隊・挺進部隊」などと称さず「機動部隊」と称されていた。
艦隊
第二次世界大戦
大日本帝国

1941年昭和16年)4月に空母を主体とした第一航空艦隊(長官は南雲忠一中将)が編成され、真珠湾攻撃(同年12月実施)のために軍隊区分で他艦隊の補助戦力をこれに加えて「機動部隊」が編成された。これは史上初の用兵思想で編成された部隊であった[5]。これは、1937年に発生した支那事変で複数の航空隊を軍隊区分で第一、第二連合航空隊とし、さらに2つを合わせて連合空襲部隊を編成したことで、第三艦隊所属の航空隊が統一指揮下で航空作戦を展開したため、航空兵力集中運用、航空艦隊編成の思想に影響したという意見がある[6]。また、1940年6月9日に第一航空戦隊司令官小沢治三郎少将が海軍大臣に提出した「航空艦隊編成に関する意見書」の影響が指摘される。意見書の内容は、全航空部隊は、建制において統一指揮下に集め、最高指揮官は練度を詳知し、不ぞろいのないように計画指導し、統一指揮のために通信網を整備し、慣熟訓練をする必要があるので、そのために訓練も1つの指揮下に航空戦力を集めるべきであるというものであった[7]

一航艦は南方作戦において活躍し、1942年6月のミッドウェー海戦によって壊滅した。詳細は「第一航空艦隊」を参照

1942年(昭和17年)7月、新たな主力空母部隊の第三艦隊が編制され、1944年(昭和19年)3月1日には第二艦隊(戦艦を中心とした部隊)と編合して第一機動艦隊が編制された。「機動」という語が艦隊の部隊号として初めて採択された。航空主兵思想に切り替わったという見方もあるが、実体は2つの艦隊を編合したに過ぎないという見方もある。ただ、前衛部隊を軍隊区分によらずに指揮下の部隊から充当できた[4]。機動部隊である第三艦隊が統一指揮を行ったのは、南太平洋海戦(1942年〈昭和17年〉10月)後の研究会で草鹿龍之介少将が「機動部隊指揮官が所在部隊を統一指揮する必要がある。第二艦隊司令長官が指揮するのは作戦上具合が悪い」と意見したことで、1943年(昭和18年)8月に解決し、建制上は1944年(昭和19年)3月になった[8]

1944年(昭和19年)6月、マリアナ沖海戦で第一機動艦隊の艦載機は壊滅状態となり、11月、レイテ沖海戦で機動部隊の空母を全て失う。同年11月15日、第一機動艦隊及び第三艦隊は解体された[9]。詳細は「第一機動艦隊」および「第三艦隊 (日本海軍)」を参照
アメリカ合衆国

アメリカ海軍の空母部隊(エアクラフトフォース)は太平洋戦争開戦前、ウィリアム・ハルゼー中将の指揮する空母3隻、水上機母艦2隻からなる部隊が補助戦力としてハワイにあった(開戦時には二つに分けられていた)。これは戦艦部隊の決戦の支援が任務であったが、日本のように戦艦部隊と完全に二分化されたものではなかった[10]。アメリカ海軍には、タスクフォースという任務に対応する部隊編成の思想があり、当時、戦艦部隊はタスクフォース11、空母部隊はタスクフォース16、タスクフォース17となっており、この思想は開戦以降の作戦に役立った。


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