空手
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稽古は型の稽古が中心で、一つの型の習得に3年を費やしたとも言われる[64]。組手は一種の約束組手が存在したが、制度化された自由組手や試合などはなく、覚えた技を試したい者は、掛け試しなどの実戦を行う必要があった。

明治以降、空手の教授法も急速な変化を遂げた。沖縄の中学校や師範学校の体育に採用されるなどして、空手は初めて一般に公開された。師弟との一対一の練習から、師範の号令と共に、多数の生徒が同じ動作や型の練習をするようになった。糸洲安恒が学校で子供達が学びやすいようにと、ピンアン(平安)の型を創作したのも、この時期である。

大正時代に入ると、那覇に沖縄唐手研究倶楽部が結成され、当時の沖縄の大家たちがこれに参加して、初めての共同研究や共同修練の試みもなされた。また船越義珍や本部朝基によって、空手史上、初めて空手書が出版されたのも大正時代であった。昭和に入ると、技に名称をつけたり、伝書の作成、組手の研究、さらには試合の導入などが試みられた。段級位制や色帯制が導入されると同時に、練習体系の合理化も進んだ。自前で道場をもつ空手家も現れ、多人数を相手に教えるようになった。

しかし、空手の近代化が進むにつれて、西洋の身体動作や運動理論の導入に対する反省も起こっている。古伝空手や沖縄空手の再認識・再評価も、近年活発である。
日本国外への影響
アメリカ合衆国

最初にアメリカに空手を紹介したのは、戦前アメリカに移住した沖縄系移民達だったと考えられているが、公的な記録に乏しく、文献から追跡するのは難しい。著名な空手家では、屋部憲通がアメリカ本土に8年間滞在した後、1927年(昭和2年)4月、帰国途中に沖縄系移民の多いハワイへ立ち寄り空手道の講習会を開いた記録が残っており[65]、屋部以降も、本部朝基、陸奥瑞穂(船越門下)、東恩納亀助(本部門下)、宮城長順といった空手家たちがハワイを訪れ、空手道を教授している。

アメリカ本土で本格的に空手が普及し始めたのは戦後からで、沖縄や日本本土で空手を習得した米国軍人たちによって伝えられた。代表的な人物には、しばしば「アメリカ空手道の父」とも言われるロバート・トリアス(1923年 - 1989年)がいる。トリアスは第二次世界大戦中、ソロモン諸島で本部朝基の弟子の中国人より空手道を習ったとされ[注 3]1946年アリゾナ州フェニックスに空手道場を開設した。
ヨーロッパ

ヨーロッパにおいては、1960年代以降、日本から空手道指導員が派遣されるという形で広まった。ドイツイギリスで指導に当たった金澤弘和(松涛館流)やポルトガルで指導に当たった東恩納盛男(剛柔流)などの活躍が知られている。

旧ソ連では、1960年代半ば、モスクワの大学に初めて空手道部が設立された。しかし1973年、ソ連政府の方針によって日本武道が突然禁止され、代わってサンボが推奨されるようになった。再び空手道が行われるようになったのは、ソ連が崩壊しロシアとなって以降のことである。
韓国

韓国では、韓国併合時代の朝鮮半島から日本へ渡った人々が、知識や技術を持ち帰り、1940年代中盤に「コンスド(空手道)」、「タンスド(唐手道)」、または「カラテ(韓手)」の呼称で広まった。1950年代に入り、松濤館空手を源流に持つ人達を中心として名称統合が行われ「テコンドー」に発展し、その後に韓国の国技となった[注 4]。なお、現在では、テコンドーの主要団体として、ITFWT の2つがある。
会派・団体一覧詳細は「空手道会派・団体一覧」を参照
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 中田瑞彦「本部朝基先生・語録」1978年(小沼保『琉球拳法空手術達人 本部朝基正伝』所収)に「古流唐手」の使用例がある。それ以降では、岩井作夫『古伝琉球唐手術』(愛隆堂、1992年)等に見いだされる。
^ 元・月刊空手道編集長の小島一志が、“フルコンタクト空手”という名称がアメリカ発で、それを日本で行われている極真会館に代表される直接打撃制の空手ルールに呼びやすい名前をつけるために拝借したと自身の著作、“リアルバトロジー2 新世紀格闘技論”にて告白している。
^ 英語版の記事ではそう記述されているが、日本側の文献では本部朝基に中国人の弟子がいたかどうか確認できていない。
^ 前 IOC副委員長で世界?拳道連盟の会長であった金雲容は 「テコンドー協会長になった頃、シルムやサッカーの関係者は自分たちのスポーツが国技であると主張していた。当時のテコンドーはいろんな面で弱かったので、私は(訳者注:1971年3月20日に)、朴正煕大統領に頼んで『国技テコンドー』と親筆揮毫していただいた。そしてこれを大量にコピーして、全ての道場に掛けるように命じた。このことがきっかけになってテコンドーは国技になった。」と『mooto media、www.mooto.com、2010年2月9日』で語っている。

出典^ 「危険に立ち向かう力が身につく。心技体を鍛えて強くなる」、2016年1月15日発行、発行者・小川雄一、14頁。
^ 船越義珍『琉球拳法唐手』3頁参照。
^ 「空手の歴史」 宮城篤正 おきなわ文庫 2014年2月12日
^ 『空手発祥の地 沖縄 Okinawa The Birthplace of Karate』沖縄県、2017年3月。 
^ 糸洲十訓第6条を参照。
^ 「本社主催・空手座談会(二)」『琉球新報』1936年10月28日。
^ 摩文仁賢和・仲宗根源和『攻防拳法空手道入門』43頁参照。
^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』榕樹書林、2004年、98頁参照。
^ 富名腰義珍『琉球拳法唐手』武侠社、1922年、2頁。
^ 本部朝基『沖縄拳法唐手術組手編』唐手術普及会、1926年、4頁。
^ 『本社主催 空手座談會(一)?(六)』琉球新報社、1936年10月27日から11月2日付。 
^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』榕樹書林、2004年、99頁参照。
^ 『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、7、25頁参照。
^ 『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、25頁参照。
^ 『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、4、25頁参照。
^ 三木二三郎・高田瑞穂『拳法概説』東大唐手研究会、1929年、改訂版1930年、復刻版、榕樹書林、2002年、221頁参照。
^ 同上。
^ a b 宮城長順「唐手道概説」 1936年、参照。
^ 山内盛彬「空手随想」『月刊空手道』七・八月合併号、空手時報社、1956年、61頁参照。
^ 安里安恒談・富名腰義珍筆「沖縄の武技」(『琉球新報』1913年1月17日-19日記事)。
^ 本部朝基『私の唐手術』、岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』所収、10頁。
^ a b c 本部直樹「「阿嘉直識遺言書」に見る18世紀の琉球の諸武術―示現流、柔術、からむとう―」(『日本武道学会第42回大会研究発表抄録』日本武道学会、2009年)
^ 長嶺将真『史実と伝統を守る・沖縄の空手道』50頁。
^ 『日本武道体系第8巻空手道・合気道・少林寺拳法・太極拳』 今村嘉雄編 同朋舎出版 1982年 ISBN 4810490173 P,105
^ 上里隆史『目からウロコの琉球・沖縄史』ボーダーインク、2007年、64頁参照。
^ 儀間真謹・藤原稜三『対談 近代空手道の歴史を語る』43頁参照。
^ 同上、42頁。
^ 藤原稜三『格闘技の歴史』640頁参照。
^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』95頁参照。
^ 岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』愛隆堂、平成14年、146頁参照。
^ 渡久地雅昭「空手の歴史、その信憑性を考察する」『JKFan』2006年10、11、12月号、2007年5、7月号、チャンプ
^ 藤原稜三『格闘技の歴史』657頁参照。
^ 『球陽』第18号、1909年、沖縄県公文書館所蔵。高宮城繁・仲本政博・新里勝彦『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、736頁参照。
^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』149頁参照。
^ 長嶺将真『沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社、昭和61年、144頁参照。
^ 「唐手実見の感想」『日布時事』1927年7月6日 ⇒[1]
^ 比嘉敏雄・高宮城繁編著『武魂 -奥妙在錬心-』沖空会北谷道場、2002年、90頁参照。
^ a b 『空手道:その歴史と技法』嘉手苅、小山、和田, 2020年日本武道館(ベースボールマガジン社)
^ 長嶺将真『史実と伝統を守る・沖縄の空手道』52頁参照。


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