空手
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しかし近年では、極真空手を出所とする団体間で顔、胴、脛、拳等に防具を着用し、突き(顔面への直突きのみ寸止めで認められる)・蹴り(下段蹴りは禁止)の攻撃をポイント制とするセミコンタクトルールが導入されている[58][59]
段級位・色帯・称号

空手道の段級位制は、講道館柔道を元にして導入された。段位は大正13年(1924年)に船越義珍が発行したのが、空手道史上、初めてと言われている[60]

帯はまず黒帯、白帯が導入された。黒帯は有段者、白帯は入門者の帯である。黒帯と白帯の中間(1 - 3級)には、多くの流派で茶帯を設けている。さらに、茶帯の下に、当初子供用に色帯が導入され、今日では一般化している。また伝統派空手の場合、段位については全日本空手道連盟が「公認段位」として認定している。一方で、フルコンタクト空手の場合、統括組織が確立していないため、各会派・団体の名義で段位を認定している。

称号は、大日本武徳会が授与するものであったが、降伏後、占領していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の命令によって解散させられると、その後は流派、会派ごとによって、独自に授与するようになった。称号には、範士教士(達士)、錬士があるが、称号を授与しない流派・団体も存在する。

段級位帯の色称号
拾段黒、赤範士
玖段黒、赤範士
捌段黒、紅白教士(達士)
漆段黒、紅白教士(達士)
陸段黒、紅白錬士
伍段黒錬士
肆段黒
参段黒
弐段黒
初段黒
一級茶
二級茶・紫・灰等
三級茶・緑等
四級以下緑・黄・青・橙等
入門者白

上記はあくまで一例であるが、一般的に普及している段級位や師範の認定は、各流派・団体において独自に行っており、統一基準は存在しない。よって同じ段級位であった場合でも技量に差があるケースもある。
空手道衣弟子の稽古を見守る喜屋武朝徳

琉球王国時代に空手道がどのような衣服で稽古されていたかは、史料がないため判然としない。戦前の写真などを見るかぎり、しばしば上半身裸で行われていたようである。『拳法概説』(昭和4年)に紹介されている喜屋武朝徳の説明によれば、裸で稽古する理由は「皮膚を強靱に鍛へると共に力の配合を明確に意識せん」がためであるとされる[61]。喜屋武は、これは幼少の頃からの習慣であると述べているので、少なくとも明治初期から、おそらくは琉球王国時代からの習慣であったと考えられる。

この習慣は首里手に限らず、上掲の写真で宮城長順許田重発が上半身裸で稽古していることからも、那覇手も含めた沖縄一般の習慣であったのだろう。ただし1921年(大正10年)に皇太子(後の昭和天皇)来沖の際に首里城正殿まで行われた空手演武(指揮:船越義珍)では、Tシャツ風の白衣上着にを着用した写真が残されている[62]

今日の空手道衣の起源は、1922年、船越義珍が講道館で演武する際に、神田の生地問屋から白木綿地を買ってきて、自ら手縫いで仕立てた柔道着らしきものが、文献上確認できる限りでは最古である[63]。空手道衣がいつ販売されるようになったかは定かではないが、1934年(昭和9年)の『空手研究』にすでに空手道衣の広告が掲載されているので、昭和初期にはすでに販売されていた。その後、動作も稽古内容も柔道とは違うため、徐々に改良がなされ、今に至っている。現在の空手道衣

空手道衣の構造は今日、伝統派空手とフルコンタクト空手において、おおむね次のような相違が見られる(詳細は流派・会派により異なる)。
伝統派空手
上衣の袖は、手首までの長さ。夏の猛暑であっても、「袖まくり」は認められない。ただし、道場師範の裁量で、稽古に限り黙認される場合もある。裾に紐が縫い付けられており、襟を合わせた後これを結ぶことで、裾の乱れを防ぐ。下穿き(ズボン)の長さは、踝の位置に合わせる。所属流派・会派をあらわすワッペン等を後から空手衣に縫い付けるスタイルが多く、道場を通さなくても空手衣の購入が可能である。
フルコンタクト空手
上衣の袖は、肘が出るか隠れる程度の長さが多く、さらにノースリーブに近いものもある。下穿き(ズボン)の長さは、床に付く程度にゆったりしている。空手衣には、団体名をあらわすオリジナルのロゴマークが刺繍、またはワッペンが付けられており、各道場を通じて購入するのが一般的である。
教授法の変遷首里城での空手道演武(昭和初期)

琉球王国時代には、空手の教授は秘密裏に行われた。人目につかないよう夜に教えたり、場所も人里離れた墓地などで教えた。こういった秘密主義は、薩摩の在番役人を警戒する必要があったためであり、また「掛け試し」などの挑戦を避けるためでもあった。当時は道場などはなく、師匠がとる弟子の数も少数であった。

日本武術とは異なり、空手には伝書はなく、口伝と実技のみで技が伝授された。稽古は型の稽古が中心で、一つの型の習得に3年を費やしたとも言われる[64]。組手は一種の約束組手が存在したが、制度化された自由組手や試合などはなく、覚えた技を試したい者は、掛け試しなどの実戦を行う必要があった。

明治以降、空手の教授法も急速な変化を遂げた。沖縄の中学校や師範学校の体育に採用されるなどして、空手は初めて一般に公開された。師弟との一対一の練習から、師範の号令と共に、多数の生徒が同じ動作や型の練習をするようになった。糸洲安恒が学校で子供達が学びやすいようにと、ピンアン(平安)の型を創作したのも、この時期である。

大正時代に入ると、那覇に沖縄唐手研究倶楽部が結成され、当時の沖縄の大家たちがこれに参加して、初めての共同研究や共同修練の試みもなされた。また船越義珍や本部朝基によって、空手史上、初めて空手書が出版されたのも大正時代であった。昭和に入ると、技に名称をつけたり、伝書の作成、組手の研究、さらには試合の導入などが試みられた。段級位制や色帯制が導入されると同時に、練習体系の合理化も進んだ。自前で道場をもつ空手家も現れ、多人数を相手に教えるようになった。

しかし、空手の近代化が進むにつれて、西洋の身体動作や運動理論の導入に対する反省も起こっている。古伝空手や沖縄空手の再認識・再評価も、近年活発である。
日本国外への影響
アメリカ合衆国

最初にアメリカに空手を紹介したのは、戦前アメリカに移住した沖縄系移民達だったと考えられているが、公的な記録に乏しく、文献から追跡するのは難しい。著名な空手家では、屋部憲通がアメリカ本土に8年間滞在した後、1927年(昭和2年)4月、帰国途中に沖縄系移民の多いハワイへ立ち寄り空手道の講習会を開いた記録が残っており[65]、屋部以降も、本部朝基、陸奥瑞穂(船越門下)、東恩納亀助(本部門下)、宮城長順といった空手家たちがハワイを訪れ、空手道を教授している。

アメリカ本土で本格的に空手が普及し始めたのは戦後からで、沖縄や日本本土で空手を習得した米国軍人たちによって伝えられた。代表的な人物には、しばしば「アメリカ空手道の父」とも言われるロバート・トリアス(1923年 - 1989年)がいる。トリアスは第二次世界大戦中、ソロモン諸島で本部朝基の弟子の中国人より空手道を習ったとされ[注 3]1946年アリゾナ州フェニックスに空手道場を開設した。
ヨーロッパ

ヨーロッパにおいては、1960年代以降、日本から空手道指導員が派遣されるという形で広まった。ドイツイギリスで指導に当たった金澤弘和(松涛館流)やポルトガルで指導に当たった東恩納盛男(剛柔流)などの活躍が知られている。

旧ソ連では、1960年代半ば、モスクワの大学に初めて空手道部が設立された。しかし1973年、ソ連政府の方針によって日本武道が突然禁止され、代わってサンボが推奨されるようになった。再び空手道が行われるようになったのは、ソ連が崩壊しロシアとなって以降のことである。
韓国

韓国では、韓国併合時代の朝鮮半島から日本へ渡った人々が、知識や技術を持ち帰り、1940年代中盤に「コンスド(空手道)」、「タンスド(唐手道)」、または「カラテ(韓手)」の呼称で広まった。1950年代に入り、松濤館空手を源流に持つ人達を中心として名称統合が行われ「テコンドー」に発展し、その後に韓国の国技となった[注 4]。なお、現在では、テコンドーの主要団体として、ITFWT の2つがある。
会派・団体一覧詳細は「空手道会派・団体一覧」を参照
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 中田瑞彦「本部朝基先生・語録」1978年(小沼保『琉球拳法空手術達人 本部朝基正伝』所収)に「古流唐手」の使用例がある。それ以降では、岩井作夫『古伝琉球唐手術』(愛隆堂、1992年)等に見いだされる。
^ 元・月刊空手道編集長の小島一志が、“フルコンタクト空手”という名称がアメリカ発で、それを日本で行われている極真会館に代表される直接打撃制の空手ルールに呼びやすい名前をつけるために拝借したと自身の著作、“リアルバトロジー2 新世紀格闘技論”にて告白している。
^ 英語版の記事ではそう記述されているが、日本側の文献では本部朝基に中国人の弟子がいたかどうか確認できていない。
^ 前 IOC副委員長で世界?拳道連盟の会長であった金雲容は 「テコンドー協会長になった頃、シルムやサッカーの関係者は自分たちのスポーツが国技であると主張していた。当時のテコンドーはいろんな面で弱かったので、私は(訳者注:1971年3月20日に)、朴正煕大統領に頼んで『国技テコンドー』と親筆揮毫していただいた。そしてこれを大量にコピーして、全ての道場に掛けるように命じた。このことがきっかけになってテコンドーは国技になった。」と『mooto media、www.mooto.com、2010年2月9日』で語っている。

出典^ 「危険に立ち向かう力が身につく。心技体を鍛えて強くなる」、2016年1月15日発行、発行者・小川雄一、14頁。


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