空手
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この事実を知らされショックを受けた県空連は全空連に要望書を提出したが、沖縄に型の権威を奪われることを警戒する本土側によって黙殺された[46]

こうして、国体参加を通じて沖縄空手を本土に広めるとした沖縄側の理想は不発に終わり、むしろ近年では競技空手にいそしむ若手を中心に本土側の型や型解釈が広まってきており、沖縄空手はそのアイデンティティーをめぐって揺れている。
型と組手摩文仁賢和のソウチン花城長茂のジオン2020年東京オリンピック銀メダルの清水希容

(形とも)と組手は、空手の基本構成であり、昔からこの二つを練習することが基本となっている。しかし、いずれが主であるかなど、基準が時代と共に変化してきている。かつては型の修行に最も価値がおかれていたが、近年では試合制の導入などにより組手重視の傾向にあり、またそれゆえ、両者の乖離(かいり)が問題ともなっている。

型(形)とは、一人で演武する空手の練習形式である。各種の技を決まった順序で演武し、演武時間は型によって数十秒から数分間続く。修業者は型の練習を通じて、空手の基本的な技や姿勢を身につけるだけでなく、組手などへの実践応用に必要な空手独特の身体動作を身につけることができるとされる。

空手の型の数はすべて数えれば数十にもなり、すでに失伝した型もあれば、明治以降新たに創作された型(ピンアン等)もある。首里手、泊手、那覇手の各系統によって、習う型の種類には相違があり、また流派によっても相違がある。同じ型でも流派によって、また沖縄と本土によっても相違が存在する。

首里手の型には、ナイファンチ、バッサイ、クーサンクーなどがある。泊手の型には、ナイファンチ、ワンシュー、ローハイなどがある。那覇手の型には、サンチン、セイサン、スーパーリンペイなどがある。

今日では型の試合も実施され、型の演武それ自体が一つの競技とされるに至っている。試合化によって、型の完成度が高まると期待される一方、勝敗を意識して、難易度の高い型を選ぶ、同じ型でもより見栄えのするように演武する弊害、いわゆる「華手(ハナディー)」の問題なども指摘されている。
首里手・泊手系の型一覧

型の名称伝承者(作者)備考型の名称伝承者(作者)備考
ナイハンチ(初?三段)松村宗棍、糸洲安恒、松茂良興作首里手・泊手系の各流派に伝わる竜波(ルーファー)比嘉清徳武芸の会に伝わる
パッサイ(大・小)糸洲安恒、親泊興寛二段武(ニダンブ、大)比嘉清徳
クーサンクー(大・小)糸洲安恒・北谷屋良二段武(ニダンブ、小)岸本祖孝
チャンナン(糸洲安恒)ピンアンの原型。本部朝基に伝わる三波武(サンパブ、大・小)比嘉清徳
ピンアン(平安、初?五段)(糸洲安恒)首里手系の各流派に伝わるアーナンクー(阿南君)喜屋武朝徳台湾より伝わる
ジオン(慈恩)花城長茂首里手系の各流派に伝わる白鶴(ホーフヮー)祖堅方範少林流松村正統に伝わる
五十四歩(ウーセーシ)屋部憲通首里手系の各流派に伝わるアーラン幸地克秀幸地道場に伝わる
ワンカン(王冠) もとは泊の型。首里手・泊手系の各流派に伝わる二十四歩(ニーセーシー) 武芸の会に伝わる
ローハイ ソウチン(壮鎮)新垣世璋新垣派の型。首里手系の流派に伝わる。
チントウ(鎮東)
(別名、岩鶴)泊の城間と金城泊村に住む福州安南の漂着人より伝えられた。首里手・泊手系の各流派に伝わるセーサン(十三歩)松村宗棍セーシャンとも。那覇手のセイサンと同系統の型。喜屋武朝徳に伝わる
チンテー松茂良興作、親泊興寛ドーチン兼島信助台湾より伝わる
ジーン泊の山里普及型(一、二)(長嶺将真、宮城長順) 
ジッテ泊の仲里基本型(一?三)(知花朝信)少林流に伝わる
ワンシュウ(汪楫)真栄田親雲上、本部朝勇、喜屋武朝徳もとは泊の型。首里手・泊手系の各流派に伝わる基本型(三?五)(仲里周五郎) 
ウンスー(雲手)本部朝勇、摩文仁賢和新垣派の型。首里系の各流派に伝わる太極(船越義豪)松濤館に伝わる
白熊(本部朝基)本部流に伝わる明星(摩文仁賢和)糸東流に伝わる
元手(一・二)本部朝勇本部御殿手に伝わる青柳
合戦手(三?五)(上原清吉)十六
ジッチン(実戦)本部朝勇本部御殿手、武芸の会に伝わる松風
松三戦(ショウサンチン)松村宗棍リンカン
元手三戦(ムートディーサンチン)本部朝勇武芸の会(比嘉清徳)に伝わる心波(シンパー)
スンスー島袋龍夫一心流に伝わる

那覇手系・その他の型一覧

流派型の名称伝承者(作者)備考流派型の名称伝承者(作者)備考
湖城流天巻湖城家湖城親方以来七代にわたって一子相伝として湖城家に伝わる剛柔流スーパーリンペイ(壱百八手)東恩納寛量、
宮城長順別称ペッチューリン
空巻上地流三戦(サンチン)上地完文中国福建省より伝わる
地巻十三(セーサン)
白龍三十六(サンセーリュー)
白虎完子和(カンシワ)(上地完英) 
白鶴十六(セーリュー)
チントウ完戦(カンチン)
ジオン完周(カンシュー)(上原三郎)旧第二セーサン
パッサイ大、小十戦(セーチン)(糸数盛喜) 
クーシャンクー大劉衛流サンチン仲井間憲里、
憲忠、憲孝仲井間家に伝わる
ナイファンチ1 - 3セーサン
ピンアン1 - 5ニセーシー
新垣派ニーセーシ新垣世璋首里系各流派に伝わるサンセールー
ウンスーセーユンチン
ソーチンオーハン
剛柔流サンチン(三戦)東恩納寛量、
宮城長順剛柔流系の型は東恩流、糸東流にも伝えられているパーチュー
転掌(テンショウ)(宮城長順)旧六機手アーナン
撃砕(一、二、ゲキサイ) パイクー
サイファー(砕破)東恩納寛量、
宮城長順 ヘイクー
シソーチン(四向鎮) パイポー
セーサン(十三手)     
セーパイ(十八手)     
サンセーリュー(三十六手)     
クルルンファー(久留頓破)     
セーエンチン(征遠鎮)セーユンチンとも。戦前は制引戦と表記した    

組手詳細は「組手 (空手)」を参照若き日の宮城長順許田重発。型分解、もしくは「武備誌」にある九天風火院三田都元帥(ブザーガナシー)のポーズを模して組手にしたものと思われる。

組手は、主に二人で相対しておこなう練習形式である。決められた手順に従って技を掛け合う「約束組手」、自由に技を掛け合う「自由組手」、さらには勝敗を目的とした「組手試合」が存在する。
歴史

組手は琉球王国時代から行われていたが、制式化されてなお現存するのは本部朝基が大正時代に発表した十二本の約束組手が最古で、それ以前のものは現存していない。尚泰王の冊封式典のために訪れた清の使節の前で「交手」という名の武技が披露されたという記録があり、これは組手のことを指すと考えられているが、その具体的な内容は不明である。

上述の本部朝基やその友人屋部憲通などを例外とすれば、戦前は型稽古が中心で、組手は学校体育向けに単純なものがわずかに行われる程度であった。さらに制度化された自由組手はまだ存在せず、掛け試しと呼ばれる一種の野試合が存在するだけであった。

しかし、空手が本土に伝えられた当時、柔道剣道ではすでに試合制が実施されており、また乱取り稽古も盛んであった。このため、永岡秀一(柔道十段)や磯貝一(柔道十段)等、講道館の重鎮達から「型だけではわからん」とその単独稽古偏重が厳しく批判されたという[47]。こうした批判を受けて、大塚博紀小西康裕等が自ら学んでいた神道揚心流柔術や竹内流柔術等の様式を取り入れて作ったものが今日の約束組手の起源である。

これ以降も空手の約束組手は本土の大学生達を中心に改良が重ねられていった。さらに戦後になると、本格的に組手試合が整備されていった。組手試合の形式には、下に示す三形式が主流であり、ルールの細かい点は流派・会派毎に特色が見られる。
寸止め

打撃による怪我を防ぐため、原則相手の皮一枚で止める「寸止め」もしくは「極め」と呼ばれる試合形式。主に全空連に加盟する伝統派空手の各流派で行われている。試合によっては防具着用を義務付ける場合もあるが、それでも直接打撃は認めていない。しかし全空連を含む多くの試合では事実上当てることが認められており、直後の引き手でダメージの軽減を計っている。このことはルール記載上の文言とは馴染まないが黙認されている。この場合、試合に支障を来たすようなダメージが与えられた場合や引き手の程度により初めて「当てた」と審判にも認知されるのが通例である。
防具付き空手

防具着用の上での直接打撃を行う試合形式。防具付き空手、硬式空手の各流派・会派で行われている。広義のフルコンタクト空手。詳しくは防具付き空手の項を参照。
フルコンタクト

フルコンタクトと呼ばれる直接打撃を認める試合形式。防具などを一切着用せず素手、素足で試合をする。ただし、顔面への拳による攻め、金的への蹴り、膝への関節蹴りなど急所攻撃は禁じている。狭義のフルコンタクト空手。極真会館など。
空手の流派と競技形式
歴史

講道館に統一されている柔道とは異なり、空手道には無数の流派が乱立し、流派によって教える型や鍛練法、試合ルールも全く異なる。大別すると、空手道の競技形式は伝統派空手フルコンタクト空手防具付き空手に分類することができる。

糸洲安恒によれば、空手道はもと昭林流と昭霊流の二派が中国から伝来したものが起源とされる[48]。前者は首里手となり、後者は那覇手となったとするのが一般的な解釈であるが、上記二派は中国でもその存在が確認されておらず、どの程度歴史的事実であったのかは、疑問の残るところである。そもそも「……流」という表記は日本的であり、中国では「……拳」と称するのが一般的であるとの指摘もある。

今日の空手流派は本土に伝来して以降のものである。最古の空手流派は、本部朝基が大正時代に命名した日本傳流兵法本部拳法(本部流)が、文献上確認できるものとしては最も古い[49]。船越義珍の松濤館流も実質的には同程度古いが、この流派名は戦後の通称であり、船越自身は生涯流派名を名乗らなかった[50]。昭和に入ってからは、宮城長順が昭和6年(1931年)に剛柔流を名乗っている[51]。その後は、知花朝信(小林流1933年)、摩文仁賢和(糸東流1934年)、小西良助(神道自然流1937年)、大塚博紀(神州和道流空手術・1938年)、保勇少林寺流空手道錬心舘1955年)、菊地和雄(清心流空手道・1957年)と、流派の命名が続いた。
伝統派空手

広義には、文字通り伝統的な空手の流派、すなわち、古流空手、全空連加盟等の本土空手、沖縄空手を含む。防具付き空手をこちらに分類することもある。


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