空手
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当たる寸前に技を止めるこのルールは年齢・性別を越えて容易に取り組むことができるとして、多くの流派で用いられることとなった[43]。 こうして1950年(昭和25年)に結成された全日本学生空手道連盟の主催により1957年(昭和32年)に寸止め空手ルールによる「第1回全日本学生空手道選手権大会」が開催。同年には、日本空手協会主催により「全国空手道選手権大会」が開催された。

また1962年(昭和37年)には、山田辰雄後楽園ホールで、「第一回空手競技会」としてグローブ空手の大会を開催した。

1964年(昭和39年)には、全日本空手道連盟(全空連)が結成された。全空連は四大流派をそれぞれ統括する日本空手協会松濤館流)、松涛館松濤館流)、剛柔会剛柔流)、糸東会糸東流)、和道会和道流)、それ以外の諸派を統括する連合会全日本空手道連盟(旧)であり防具付き空手諸派を統括する錬武会の6つの協力団体を中心に、「日本の空手道に統一的な秩序をもたらす」ことを目的として結成された。そして1969年(昭和44年)9月、全空連主催による伝統派(寸止め)ルールの「第1回全日本空手道選手権大会」が日本武道館で開催された。

しかし同年同月、伝統派空手に疑問を抱き、独自の理論で直接打撃制の空手試合を模索していた極真空手創始者の大山倍達によって、防具を一切着用しない、素手、素足の直接打撃制(足技以外の顔面攻撃禁止制)による第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が代々木の東京体育館で開催され空手界に一大旋風を巻き起こした。一方の全日本空手道連盟は翌年、第1回世界空手道選手権大会を開催した。
流派の乱立と空手の多様化

このように、空手道の全国化・組織化は着実に進んでいった。しかし、その一方で、もともと流派、会派などが存在しなかったと言われていた空手道界であったが、大日本武徳会を機に流派、会派など増え始めていった。1948年(昭和23年)、東京では船越義珍の門弟たちによって松濤館流最大会派である日本空手協会が結成され、1957年(昭和32年)4月10日、日本空手協会を社団法人として文部省が認可した。しかし1958年(昭和33年)には早くも空手道の試合化を否定する廣西元信たちが戦前からの松濤会を復活させ、独立していった。分裂、独立については、ほかの流派も事情は似たり寄ったりであった。遠山寛賢やその高弟らによって設立された錬武会のように、無流派主義を標榜する空手家や連盟もいたが、多数にはなり得なかった。

また、全空連の試合規則、いわゆる「寸止め(極め)」ルールに対する不満などから、大山倍達極真会館に代表されるような、フルコンタクト空手という、直接打撃制スタイル(中には顔面攻撃を認める会派もある)を採用する団体もあらわれ、一大勢力を形成するようになった。しかし、大山倍達が存命中は一枚岩と言われていた極真会館もまた、大山の死後、極真を名乗る複数の団体に分裂し、独自会派を立ち上げる者が多数出現することになる。そして、極真会館出身の大道塾空道に代表されるような、打撃技に特化された現在の空手へのアンチ・テーゼとして、空手道に関節技投げ技を取り入れて、かつての空手がそうであった、総合武道の姿へと復元を目指す会派などもあらわれた。
戦後(沖縄)
統一組織の誕生

戦後の沖縄では、戦争の爪痕も深く、県下の各流派・道場は個別に活動しており統一組織は存在していなかったが、まず1956年(昭和31年)、上地流剛柔流小林流、松林流の4流派によって沖縄空手道連盟(会長・知花朝信、沖空連)が結成された。次に全日本空手道連盟(旧)理事の保勇少林寺流錬心舘)が仲立ちとなって全日本空手道連盟沖縄地区特別本部(会長・島袋善良)が1960年(昭和35年)に結成された。翌1961年(昭和36年)には、古武道系諸団体を中心に沖縄古武道協会(会長・比嘉清徳、古武道協)が結成された。

1963年(昭和38年)、沖空連から知花朝信一派が脱退、その4年後の1967年(昭和42年)に沖空連は解消され、全沖縄空手道連盟(会長・長嶺将真、全沖空連)が新たに結成された。同年、全日本空手道連盟沖縄地区特別本部は沖縄空手道連合会へ、古武道協は全沖縄空手古武道連合会(会長・比嘉清徳)へとそれぞれ改組された。
国体参加問題

1981年(昭和56年)、沖縄空手界では、国体への参加問題と、これに伴う全日本空手道連盟(全空連)への加盟問題がこじれて大問題に発展した。全空連は、沖縄県体育協会(会長・大里喜誠)傘下の全沖空連に対して、沖縄側の加盟にあたって審査資格を八木明徳(剛柔流)、比嘉佑直(小林流)、上地完英(上地流)の長老三氏にのみ認め、ほかは本土側の審査を受けると通告したため、沖縄側が本土の支配下に置かれるとして反発した。しかし、海邦国体を間近に控え、業を煮やした沖縄県体育協会はついに、全沖空連を「不適当団体」として脱会処分にし、代わりに剛柔流(宮里栄一)、小林流(宮平勝哉、比嘉佑直)、松林流(長嶺将真)、本部御殿手(上原清吉)等によって結成された沖縄県空手道連盟(県空連、会長・長嶺将真)の入会を認めた[44]

全空連加盟を容認する県空連に対して、全沖空連側は「沖縄伝統の空手が日本空手道連盟の支配下に置かれることは納得できない」と強い不満を表明したが、県空連側も「全空連の内部にとび込んで、沖縄空手の向上を図るべき」(長嶺将真)として両者の主張は平行線をたどった[45]
揺れる沖縄空手

1982年(昭和57年)、くにびき国体(島根県)の予選も兼ねた県空連主催の第一回空手道選手権大会が開催された。そして、1987年(昭和62年)、沖縄県で海邦国体が開催され、沖縄勢は型で全種目優勝を果たすなど空手道競技9種目中5種目を制覇して、本場の面目を保った。

しかし、当初全空連に加盟して内部から改革すると意気込んでいた県空連の改革姿勢も、本土側によって無視され不発に終わった。特に国体における指定型は、当初全空連(江里口栄一専務理事)は首里系4つ、那覇系4つの「名称のみの指定である」と沖縄側へ説明していたが、実際は本土四大流派の型であり、同一名称でも沖縄の型で試合に出ることはできなかった。この事実を知らされショックを受けた県空連は全空連に要望書を提出したが、沖縄に型の権威を奪われることを警戒する本土側によって黙殺された[46]

こうして、国体参加を通じて沖縄空手を本土に広めるとした沖縄側の理想は不発に終わり、むしろ近年では競技空手にいそしむ若手を中心に本土側の型や型解釈が広まってきており、沖縄空手はそのアイデンティティーをめぐって揺れている。
型と組手摩文仁賢和のソウチン花城長茂のジオン2020年東京オリンピック銀メダルの清水希容

(形とも)と組手は、空手の基本構成であり、昔からこの二つを練習することが基本となっている。しかし、いずれが主であるかなど、基準が時代と共に変化してきている。かつては型の修行に最も価値がおかれていたが、近年では試合制の導入などにより組手重視の傾向にあり、またそれゆえ、両者の乖離(かいり)が問題ともなっている。

型(形)とは、一人で演武する空手の練習形式である。各種の技を決まった順序で演武し、演武時間は型によって数十秒から数分間続く。修業者は型の練習を通じて、空手の基本的な技や姿勢を身につけるだけでなく、組手などへの実践応用に必要な空手独特の身体動作を身につけることができるとされる。

空手の型の数はすべて数えれば数十にもなり、すでに失伝した型もあれば、明治以降新たに創作された型(ピンアン等)もある。首里手、泊手、那覇手の各系統によって、習う型の種類には相違があり、また流派によっても相違がある。同じ型でも流派によって、また沖縄と本土によっても相違が存在する。

首里手の型には、ナイファンチ、バッサイ、クーサンクーなどがある。泊手の型には、ナイファンチ、ワンシュー、ローハイなどがある。那覇手の型には、サンチン、セイサン、スーパーリンペイなどがある。

今日では型の試合も実施され、型の演武それ自体が一つの競技とされるに至っている。試合化によって、型の完成度が高まると期待される一方、勝敗を意識して、難易度の高い型を選ぶ、同じ型でもより見栄えのするように演武する弊害、いわゆる「華手(ハナディー)」の問題なども指摘されている。
首里手・泊手系の型一覧

型の名称伝承者(作者)備考型の名称伝承者(作者)備考
ナイハンチ(初?三段)松村宗棍、糸洲安恒、松茂良興作首里手・泊手系の各流派に伝わる竜波(ルーファー)比嘉清徳武芸の会に伝わる
パッサイ(大・小)糸洲安恒、親泊興寛二段武(ニダンブ、大)比嘉清徳
クーサンクー(大・小)糸洲安恒・北谷屋良二段武(ニダンブ、小)岸本祖孝
チャンナン(糸洲安恒)ピンアンの原型。本部朝基に伝わる三波武(サンパブ、大・小)比嘉清徳
ピンアン(平安、初?五段)(糸洲安恒)首里手系の各流派に伝わるアーナンクー(阿南君)喜屋武朝徳台湾より伝わる
ジオン(慈恩)花城長茂首里手系の各流派に伝わる白鶴(ホーフヮー)祖堅方範少林流松村正統に伝わる
五十四歩(ウーセーシ)屋部憲通首里手系の各流派に伝わるアーラン幸地克秀幸地道場に伝わる
ワンカン(王冠) もとは泊の型。首里手・泊手系の各流派に伝わる二十四歩(ニーセーシー) 武芸の会に伝わる
ローハイ ソウチン(壮鎮)新垣世璋新垣派の型。首里手系の流派に伝わる。
チントウ(鎮東)
(別名、岩鶴)泊の城間と金城泊村に住む福州安南の漂着人より伝えられた。首里手・泊手系の各流派に伝わるセーサン(十三歩)松村宗棍セーシャンとも。那覇手のセイサンと同系統の型。喜屋武朝徳に伝わる
チンテー松茂良興作、親泊興寛ドーチン兼島信助台湾より伝わる
ジーン泊の山里普及型(一、二)(長嶺将真、宮城長順) 
ジッテ泊の仲里基本型(一?三)(知花朝信)少林流に伝わる


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