空手
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初期の高弟であった大塚博紀和道流)や小西康裕神道自然流)によると、船越は当初15の型を持参して上京したが、組手はほとんど知らなかったという[41]

ほかにも、本土では摩文仁賢和とその弟子である澤山宗海(勝)らが独自に防具付き空手を研究していた。また、沖縄では屋部憲通が防具を使った組手稽古を沖縄県師範学校ではじめた。こうした中で東京都千代田区九段に設立されたのが、後に全日本空手道連盟錬武会に発展する韓武舘である。いずれにしろ戦前の空手家が当初目指したのは、防具着用による組手方式であった。
戦後(本土)
武道禁止令と活動再開

連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって、文部省から出された「柔道、剣道等の武道を禁止する通達」のため、空手道の活動は一時、停滞した。しかし、この通達には「空手道」の文字が含まれていなかったため、空手道は禁止されていないとの文部省解釈を引き出して、空手道は他武道よりも、早期に活動を再開することができた。
全国組織と競技空手の誕生錬武会防具付き空手世界空手道連盟の試合風景(世界空手道選手権大会)2020東京オリンピック銅メダルの荒賀龍太郎

空手道の競技化(試合化)は戦前から試みられていたが、試合化そのものを否定する考えもあり、組織的な競技化は実現していなかった。しかし1954年(昭和29年)錬武舘が「第1回全国空手道選手権大会」を防具付きルールで実施した。錬武舘(旧名・韓武舘)は遠山寛賢の無流派主義を受け継ぐ道場で、戦後の空手道言論界をリードした金城裕が防具付空手を主導した。この大会は全日本空手道連盟錬武会主催の全国防具付空手道選手権大会という名称で、空手道界最古の全国大会として現在も開催されている[42]

錬武舘1959年(昭和34年)実業家であり内外タイムス社、代表取締役社長の蔡長庚から支援を受けて、全日本空手道連盟(旧)に発展。遠山寛賢の修道館を総本部とし、会長に蔡長庚、副会長に小西康裕神道自然流)、金城裕韓武館)、顧問に大塚博紀和道流)、山田辰雄(日本拳法)、儀間真謹松濤館流)、理事に保勇少林寺流錬心舘)など当時の空手界重鎮多数が就任し、主催する全日本空手道連盟選手権大会には少林寺流錬心舘や日本千唐会等も参加していた。しかし当時の防具は安全性が十分に確保されていないものであり、危険度が高く、競技として普及するにはまだまだリスクの大きいものであった。

そのため、拓殖大学空手道部などが中心になって創案した「寸止めルール」が、次第に主流を占めることとなった。当たる寸前に技を止めるこのルールは年齢・性別を越えて容易に取り組むことができるとして、多くの流派で用いられることとなった[43]。 こうして1950年(昭和25年)に結成された全日本学生空手道連盟の主催により1957年(昭和32年)に寸止め空手ルールによる「第1回全日本学生空手道選手権大会」が開催。同年には、日本空手協会主催により「全国空手道選手権大会」が開催された。

また1962年(昭和37年)には、山田辰雄後楽園ホールで、「第一回空手競技会」としてグローブ空手の大会を開催した。

1964年(昭和39年)には、全日本空手道連盟(全空連)が結成された。全空連は四大流派をそれぞれ統括する日本空手協会松濤館流)、松涛館松濤館流)、剛柔会剛柔流)、糸東会糸東流)、和道会和道流)、それ以外の諸派を統括する連合会全日本空手道連盟(旧)であり防具付き空手諸派を統括する錬武会の6つの協力団体を中心に、「日本の空手道に統一的な秩序をもたらす」ことを目的として結成された。そして1969年(昭和44年)9月、全空連主催による伝統派(寸止め)ルールの「第1回全日本空手道選手権大会」が日本武道館で開催された。

しかし同年同月、伝統派空手に疑問を抱き、独自の理論で直接打撃制の空手試合を模索していた極真空手創始者の大山倍達によって、防具を一切着用しない、素手、素足の直接打撃制(足技以外の顔面攻撃禁止制)による第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が代々木の東京体育館で開催され空手界に一大旋風を巻き起こした。一方の全日本空手道連盟は翌年、第1回世界空手道選手権大会を開催した。
流派の乱立と空手の多様化

このように、空手道の全国化・組織化は着実に進んでいった。しかし、その一方で、もともと流派、会派などが存在しなかったと言われていた空手道界であったが、大日本武徳会を機に流派、会派など増え始めていった。1948年(昭和23年)、東京では船越義珍の門弟たちによって松濤館流最大会派である日本空手協会が結成され、1957年(昭和32年)4月10日、日本空手協会を社団法人として文部省が認可した。しかし1958年(昭和33年)には早くも空手道の試合化を否定する廣西元信たちが戦前からの松濤会を復活させ、独立していった。分裂、独立については、ほかの流派も事情は似たり寄ったりであった。遠山寛賢やその高弟らによって設立された錬武会のように、無流派主義を標榜する空手家や連盟もいたが、多数にはなり得なかった。

また、全空連の試合規則、いわゆる「寸止め(極め)」ルールに対する不満などから、大山倍達極真会館に代表されるような、フルコンタクト空手という、直接打撃制スタイル(中には顔面攻撃を認める会派もある)を採用する団体もあらわれ、一大勢力を形成するようになった。しかし、大山倍達が存命中は一枚岩と言われていた極真会館もまた、大山の死後、極真を名乗る複数の団体に分裂し、独自会派を立ち上げる者が多数出現することになる。そして、極真会館出身の大道塾空道に代表されるような、打撃技に特化された現在の空手へのアンチ・テーゼとして、空手道に関節技投げ技を取り入れて、かつての空手がそうであった、総合武道の姿へと復元を目指す会派などもあらわれた。
戦後(沖縄)
統一組織の誕生

戦後の沖縄では、戦争の爪痕も深く、県下の各流派・道場は個別に活動しており統一組織は存在していなかったが、まず1956年(昭和31年)、上地流剛柔流小林流、松林流の4流派によって沖縄空手道連盟(会長・知花朝信、沖空連)が結成された。次に全日本空手道連盟(旧)理事の保勇少林寺流錬心舘)が仲立ちとなって全日本空手道連盟沖縄地区特別本部(会長・島袋善良)が1960年(昭和35年)に結成された。翌1961年(昭和36年)には、古武道系諸団体を中心に沖縄古武道協会(会長・比嘉清徳、古武道協)が結成された。

1963年(昭和38年)、沖空連から知花朝信一派が脱退、その4年後の1967年(昭和42年)に沖空連は解消され、全沖縄空手道連盟(会長・長嶺将真、全沖空連)が新たに結成された。同年、全日本空手道連盟沖縄地区特別本部は沖縄空手道連合会へ、古武道協は全沖縄空手古武道連合会(会長・比嘉清徳)へとそれぞれ改組された。
国体参加問題

1981年(昭和56年)、沖縄空手界では、国体への参加問題と、これに伴う全日本空手道連盟(全空連)への加盟問題がこじれて大問題に発展した。全空連は、沖縄県体育協会(会長・大里喜誠)傘下の全沖空連に対して、沖縄側の加盟にあたって審査資格を八木明徳(剛柔流)、比嘉佑直(小林流)、上地完英(上地流)の長老三氏にのみ認め、ほかは本土側の審査を受けると通告したため、沖縄側が本土の支配下に置かれるとして反発した。


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