空手
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最近の研究によれば、最初に本土へ唐手を紹介したのは、明治時代に東京の尚侯爵邸に詰めていた琉球士族たちである[32]。彼らは他の藩邸に招かれて唐手を披露したり、揚心流起倒流などの柔術の町道場に出向いて、突、蹴を披露していた。

また、1908年(明治41年)、沖縄県立中学校の生徒が京都武徳会青年大会において、武徳会の希望により唐手の型を披露としたとの記録があり、このとき「嘉納博士も片唾を呑んで注視してゐた」[33]というように、本土武道家の中にはすでにこの頃から唐手の存在に注目する者もいた。

しかし、本格的な指導は、富名腰義珍(後の船越義珍)や本部朝基らが本土へ渡った大正以降である。1922年(大正11年)5月、文部省主催の第一回体育展覧会において、富名腰は唐手の型や組手の写真を二幅の掛け軸にまとめてパネル展示を行った[34]。この展示がきっかけで、翌6月、富名腰は嘉納治五郎に招待され、講道館で嘉納治五郎をはじめ200名を超える柔道有段者を前にして、唐手の演武と解説を行った。富名腰はそのまま東京に留まり、唐手の指導に当たることになった。(船越義珍#本土時代も参照。)

同じ頃、関西では本部朝基が唐手の実力を世人に示して、世間を驚嘆させた。同年11月、たまたま遊びに出かけていた京都で、本部はボクシング対柔道の興行試合に飛び入りで参戦し、相手のロシア人ボクサーを一撃のもとに倒した。当時52歳であった。この出来事が国民的雑誌『キング』等で取り上げられたことで、本部朝基の武名は一躍天下に轟くことになり、それまで一部の武道家や好事家のみに知られていた唐手の名が、一躍全国に知られるようになったと言われている[35]。本部は同年から大阪で唐手の指導を始めた。富名腰や本部の活動に刺激されて、日本本土では大正末期から昭和にかけて大学で唐手研究会の創設が相次いだ。

また、本部のこの試合の勝利は、屋部憲通のハワイ唐手実演会(1927年)でも紹介され[36]、海外での初期の唐手宣伝にも一役買った。ジェームズ・ミトセやエド・パーカーエルヴィス・プレスリーの武術師匠)等、ハワイ出身のアメリカン・ケンポー(ケンポー・カラテ)の創始者達が、本部朝基との伝系のつながりを主張しているのも、こうした宣伝が影響を及ぼしたと考えられる。

沖縄では、大正13年(1924年)、本部朝勇が会長となって「沖縄唐手研究倶楽部」が設立され[37]、さらに大正15年(1926年)には「沖縄唐手倶楽部」へと発展しながら、在沖縄の唐手の大家が一堂に会して、唐手の技術交流と共同研究の試みが行われた。参加者は花城長茂本部朝勇、本部朝基、喜屋武朝徳知花朝信摩文仁賢和宮城長順許田重発、呉賢貴など、そうそうたる顔ぶれであった。
空手道の誕生(昭和初期)本土で活躍する空手の大家が一堂に会した写真。左から、遠山寛賢(修道館)、大塚博紀和道流)、下田武(船越高弟)、船越義珍松濤館流)、本部朝基本部流)、摩文仁賢和糸東流)、仲宗根源和(空手研究社)、平信賢(保存振興会)。東京、1930年代。

昭和に入ると、摩文仁賢和宮城長順遠山寛賢らも本土へ渡って、唐手の指導に当たるようになった。1934年(昭和9年)、大日本武徳会においてそれまでは柔術部門の科目とされていた唐手術が正式に部門として昇格し、同時に昭和9-12年には、小西康裕(神道自然流)、上島三之助(空真流)、宮城長順(剛柔流)といった人たちに教士号が授与された。 これは沖縄という一地方から発祥した唐手が晴れて日本の武道として認められた画期的な出来事だった。[38]

また、近年になり、こうした本土への空手普及には柔道の嘉納治五郎が深く関わっていたことが知られ始めている。1927年(昭和2年)に沖縄県の唐手術を視察した嘉納治五郎は、宮城長順ならびに摩文仁賢和と交流し、意気投合した。嘉納は両師範に上京して唐手術を本土に普及させてほしいと依頼するととにも、その後の宮城長順による大日本武徳会を通じた普及活動にはいろいろと便宜を図ったと思われる。(宮城はすぐに教士に列せられたが、船越は下位の錬士にしか列れられなかった)宮城長順は嘉納の武道思想の影響を受け始めたこの頃から「唐手道」という表記を用い始めている。両者の手紙による交流は長く続いたという。また、嘉納治五郎は沖縄視察から帰京すると、精力善用国民体育という初等中等学校向けの兵式体操(突き蹴りが中心)のようなものを考案したが、そこには剛柔流の基本の影響が見てとれるという。[38]

1929年(昭和4年)、船越義珍が師範を務めていた慶應義塾大学唐手研究会が般若心経の「」の概念から唐手を空手に改めると発表したのをきっかけに、本土では空手表記が急速に広まった。さらに他の武道と同じように「」の字をつけ、「唐手術」から「空手道」に改められた。沖縄でも1936年(昭和11年)10月25日、那覇で「空手大家の座談会」(琉球新報主催)が開催され、唐手から空手へ改称することが決議された。このような改称の背景には、当時の軍国主義的風潮への配慮(唐手が中国を想起させる)もあったとされている[39]。なお、空手の表記は、花城長茂が、明治38年(1905年)から使用していたことが明らかとなっている。また本土の柔術諸派では空手術(くうしゅじゅつ)という表現が徒手空拳の当て身をさす言葉として用いられていたことも関係している。

このような徒手格闘としての空手の競技化に当たり、当初もっとも研究されていたのは防具付き空手であった。昭和2年(1927年)、東京帝国大学の唐手研究会が独自に防具付き空手を考案し、空手の試合を行うようになった。これを主導したのは坊秀男(後の和道会会長・大蔵大臣)らであったが[40]、当時この師範であった船越は激怒し、昭和4年(1929年)東大師範を辞任する事態にまで発展した。演武会などでは、唐手の武術として一端を見せるためにやむなく組手も披露したが、普段の練習では基本と型の練習に終始した。初期の高弟であった大塚博紀和道流)や小西康裕神道自然流)によると、船越は当初15の型を持参して上京したが、組手はほとんど知らなかったという[41]

ほかにも、本土では摩文仁賢和とその弟子である澤山宗海(勝)らが独自に防具付き空手を研究していた。また、沖縄では屋部憲通が防具を使った組手稽古を沖縄県師範学校ではじめた。こうした中で東京都千代田区九段に設立されたのが、後に全日本空手道連盟錬武会に発展する韓武舘である。いずれにしろ戦前の空手家が当初目指したのは、防具着用による組手方式であった。
戦後(本土)
武道禁止令と活動再開

連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって、文部省から出された「柔道、剣道等の武道を禁止する通達」のため、空手道の活動は一時、停滞した。しかし、この通達には「空手道」の文字が含まれていなかったため、空手道は禁止されていないとの文部省解釈を引き出して、空手道は他武道よりも、早期に活動を再開することができた。
全国組織と競技空手の誕生錬武会防具付き空手世界空手道連盟の試合風景(世界空手道選手権大会)2020東京オリンピック銅メダルの荒賀龍太郎

空手道の競技化(試合化)は戦前から試みられていたが、試合化そのものを否定する考えもあり、組織的な競技化は実現していなかった。しかし1954年(昭和29年)錬武舘が「第1回全国空手道選手権大会」を防具付きルールで実施した。錬武舘(旧名・韓武舘)は遠山寛賢の無流派主義を受け継ぐ道場で、戦後の空手道言論界をリードした金城裕が防具付空手を主導した。


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