空手
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それゆえ、禁武政策による空手発展説を「全く根拠のない巷間の浮説」(藤原稜三)と一刀両断する研究者もいる[27]
手(ティー)の時代

古くは16世紀、命を狙われた京阿波根実基(きょうあはごんじっき)が「空手」という武術を用いて暗殺者の両股を打ち砕いたとの記述が正史『球陽』(1745年頃)にあり、これは唐手以前の素手格闘術であったと考えられているが、これが現在の空手の源流武術であったのかは証明する史料に乏しく、その実態ははっきりしない。また、17世紀の武術家の名前が何人か伝えられているが、彼らがいかなる格闘技をしていたのか、その実態は明らかではない。明確に手(ティー)の使い手として多くの武人の名が挙がるのは、18世紀に入ってからである。西平親方、具志川親方、僧侶通信、渡嘉敷親雲上、蔡世昌真壁朝顕などの名が知られている。

また、土佐藩の儒学者・戸部良煕が、土佐に漂着した琉球士族より聴取して記した『大島筆記』(1762年)の中に、先年来琉した公相君が組合術という名の武術を披露したとの記述があることが知られている。この公相君とは、1756年に訪れた冊封使節の中の侍従武官だったのでないかと見られており、空手の起源をこの公相君の来琉に求める説もあるが、組合術とは空手のような打撃技ではなく、一種の柔術だったのではないかとの見解もあり[28]、推測の域を出ていない。

1784年に没した琉球士族の阿嘉直識の遺言書に「からむとう」なる武術の名前が記されている[22]が、これが空手の起源であるかどうかは未詳である。また同遺言書は柔術を指す「やはら」についても記されており、少なくとも「からむとう」と柔術は別の武術と認識されていたようである。
唐手(トゥーディー)の時代松村宗棍遺訓。武芸を三段階に分けて、型偏重(学士の武芸)を戒め、臨機応変の大切さを説き、武芸の目的はおのれのためではなく、国王や両親を守る(忠孝)ためにある(武道の武芸)と説く。

19世紀になると、唐手という名称が使われ出す。しかし、唐手と「手」の相違は判然としない。明治初頭の頃まで、唐手以前の「手」は特に沖縄手(おきなわて、ウチナーディー)と呼ばれ、唐手とは区別されていたとされるが[29]、両者の間にどのような相違があったのかは不明である。19世紀以降の唐手の使い手としては、首里では佐久川寛賀とその弟子の松村宗棍、盛島親方、油屋山城、泊では宇久嘉隆、照屋規箴、那覇では湖城以正、長浜筑登之親雲上などである。この中でも、特に松村宗棍は琉球王国時代の最も偉大な唐手家の一人と言われている。琉球国王の御側守役(侍従武官)の職にあり、国王の武術指南役もつとめたという。

また、この頃から薩摩を経由して伝来した日本武術も、唐手の発展に影響を及ぼしたとされる。最初は薩摩の在番役人から示現流剣術やその分派の剣術を修業する琉球士族の一部から伝わったものと思われるが、18世紀には薩摩藩士を介さず琉球士族から示現流剣術を学ぶ者もあった[22]。また、松村宗棍のように、薩摩に渡って示現流を修業してくる者もいた。空手の「巻藁突き」は、示現流の「立木打ち」からヒントを得たとも言われている[30]。また、空手の一撃必殺を追求する理念にも、示現流の影響があるという説もある。[誰によって?]

さて、空手に流派が登場するのは、空手が本土に伝えられた大正末期以降である。それ以前は、空手の盛んだった地域名から、単に首里手泊手那覇手の三つに、大まかに分類されていたにすぎない。もっとも首里士族の中には首里手以外に、泊手や那覇手も同時に習っていた例もあり、この分類もあまり厳密に受け取るべきではないと言えよう。
廃藩置県後
唐手(からて)の公開(明治時代)

元来、琉球士族の間で密かに伝えられてきた唐手であるが、明治12年(1879年)、琉球処分により琉球王国が滅亡すると、唐手も失伝の危機を迎えた。唐手の担い手であった琉球士族は、一部の有禄士族を除いて瞬く間に没落し、唐手の修練どころではなくなった。不平士族の中には国へ逃れ(脱清)、独立運動を展開する者もいた。開化党(革新派)と頑固党(保守派)が激しく対立して、士族階層は動揺した。

このような危機的状況から唐手を救ったのが糸洲安恒である。明治38年(1905年)、唐手が沖縄県中学校(現・首里高等学校)および沖縄県師範学校で正科として採用されると、糸洲は唐手師範として花城長茂屋部憲通等とともに指導にあたった。その際、読み方も「トーディー」から「からて」に改められた。唐手は糸洲によって一般に公開され、また武術から体育的性格へと変化することによって、生き延びたのである。糸洲の改革の情熱は、型の創作や改良にも及んだ。生徒たちが学習しやすいようにとピンアン(平安)の型を新たに創作し、既存の型からは急所攻撃や関節折りなど危険な技が取り除かれた。

このような動きとは別に、中国へ渡った沖縄県人の中には、現地で唐手道場を開いたり、また現地で中国拳法を習得して、これを持ち帰る者もいた。湖城以正東恩納寛量、上地完文などがそうである。もっとも、日中国交回復後、日本から何度も現地へ調査団が派遣されたが源流武術が特定できず、また中国武術についての書籍や動画が出回るにつれ、彼らが伝えた武術と中国武術とはあまり似ていないという事実が知られるようになると、近年では研究者の間で彼らの伝系を疑問視する声も出てきている[31]
本土へ(大正時代)52歳の頃に外国人ボクサーを一撃で倒した本部朝基。空手の真価を実力でもって証明し、空手の存在を一躍全国に知らしめた。船越義珍。本土において初めて空手を本格的に指導し、また史上初の空手書の出版などを通じて、その普及に尽力した。

最近の研究によれば、最初に本土へ唐手を紹介したのは、明治時代に東京の尚侯爵邸に詰めていた琉球士族たちである[32]。彼らは他の藩邸に招かれて唐手を披露したり、揚心流起倒流などの柔術の町道場に出向いて、突、蹴を披露していた。

また、1908年(明治41年)、沖縄県立中学校の生徒が京都武徳会青年大会において、武徳会の希望により唐手の型を披露としたとの記録があり、このとき「嘉納博士も片唾を呑んで注視してゐた」[33]というように、本土武道家の中にはすでにこの頃から唐手の存在に注目する者もいた。

しかし、本格的な指導は、富名腰義珍(後の船越義珍)や本部朝基らが本土へ渡った大正以降である。1922年(大正11年)5月、文部省主催の第一回体育展覧会において、富名腰は唐手の型や組手の写真を二幅の掛け軸にまとめてパネル展示を行った[34]。この展示がきっかけで、翌6月、富名腰は嘉納治五郎に招待され、講道館で嘉納治五郎をはじめ200名を超える柔道有段者を前にして、唐手の演武と解説を行った。富名腰はそのまま東京に留まり、唐手の指導に当たることになった。(船越義珍#本土時代も参照。)

同じ頃、関西では本部朝基が唐手の実力を世人に示して、世間を驚嘆させた。同年11月、たまたま遊びに出かけていた京都で、本部はボクシング対柔道の興行試合に飛び入りで参戦し、相手のロシア人ボクサーを一撃のもとに倒した。当時52歳であった。この出来事が国民的雑誌『キング』等で取り上げられたことで、本部朝基の武名は一躍天下に轟くことになり、それまで一部の武道家や好事家のみに知られていた唐手の名が、一躍全国に知られるようになったと言われている[35]。本部は同年から大阪で唐手の指導を始めた。富名腰や本部の活動に刺激されて、日本本土では大正末期から昭和にかけて大学で唐手研究会の創設が相次いだ。

また、本部のこの試合の勝利は、屋部憲通のハワイ唐手実演会(1927年)でも紹介され[36]、海外での初期の唐手宣伝にも一役買った。ジェームズ・ミトセやエド・パーカーエルヴィス・プレスリーの武術師匠)等、ハワイ出身のアメリカン・ケンポー(ケンポー・カラテ)の創始者達が、本部朝基との伝系のつながりを主張しているのも、こうした宣伝が影響を及ぼしたと考えられる。

沖縄では、大正13年(1924年)、本部朝勇が会長となって「沖縄唐手研究倶楽部」が設立され[37]、さらに大正15年(1926年)には「沖縄唐手倶楽部」へと発展しながら、在沖縄の唐手の大家が一堂に会して、唐手の技術交流と共同研究の試みが行われた。参加者は花城長茂本部朝勇、本部朝基、喜屋武朝徳知花朝信摩文仁賢和宮城長順許田重発、呉賢貴など、そうそうたる顔ぶれであった。
空手道の誕生(昭和初期)本土で活躍する空手の大家が一堂に会した写真。左から、遠山寛賢(修道館)、大塚博紀和道流)、下田武(船越高弟)、船越義珍松濤館流)、本部朝基本部流)、摩文仁賢和糸東流)、仲宗根源和(空手研究社)、平信賢(保存振興会)。


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