空手
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改称理由について、沖縄唐手は大学において「科学的に解剖され分析され研究され批判された」[14]結果、一度解体される必要性が生じたため、新しく日本精神に基づいて日本の武道として再組織されて「空手道」に改められたとしている[15]

一方で、同じく船越義珍が師範を務めていた東大唐手研究会でも同時期に「唐手道」の名称を使用していた事実が当時発行された書籍から確認することができる[16]。その理由について、船越義珍の伝えた沖縄唐手は組み手の技法を伝えず「型法の修練」に終始したが、これは「唐手道」到達における前段階にすぎず、これに試合制を加味してはじめて「唐手道」に至るのであるとしている[17]


名称の変遷15 - 18世紀19世紀1900年代 -1920年代 -1980年代 -
手(ティー)手(沖縄手)唐手(からて)唐手術空手(道)カラテ、KARATE
唐手(トゥーディー)

※上記表はあくまで概略図であり、実際の名称の変遷は多少の時期の重複を含む。
空手の歴史
空手の起源

空手の起源に関しては諸説あるが、主なものは下記の通りである。
久米三十六姓輸入説

那覇の久米村(クニンダ、現・那覇市久米)に、1392年、当時の福建省から「?(ビン)人三十六姓」と呼ばれる職能集団が移住してきたとされる。彼らは琉球に先進的な学芸、技能等をもたらしたが、この時、空手の起源となる中国拳法も同時にもたらされたとする説。ただし当時は中国でも拳法が未発達だったことが知られており今日ではこの説に疑問を呈する見解もある。同じ中国伝来説に、禁武政策以降にもたらされたとする「慶長輸入説」や『大島筆記』の記述を元に公相君が伝えたとする「大島筆記説」等もある[18]
「舞方」からの発展説

舞方(メーカタ、前方とも)は、琉球舞踊の一種である。沖縄の田舎には舞方と呼ばれる音曲にあわせて踊る武術的な舞踊があり、戦前まで各地に見られた。また、日本の「(やっこ)」のように、舞踊行列において前払いをする者は前方(メーカタ)と呼ばれ、行列の先頭で音曲に合わせて空手のような武術的な踊りをしていたともいう[19]。こうした武術的要素をもった舞方から「手(ティー)」が生まれ唐手へと発展した、ないしは舞方の中に唐手発達以前の「手」の原初的姿が残されている、とする説。安里安恒やその弟子の船越義珍がこの説を唱えている[20]

この「手」に中国武術が加味されて唐手へと発展したとする説は今日の主流になっている。本部朝基の「(支那拳法が)琉球在来の武術と合し、取捨選択洗練の結果、唐手として隆々発達を遂げた」[21]とする説や、宮城長順が記す「慶長輸入説」のうち、「外来の拳法が在来の『手』と合流して異常の発達を遂げ」[18]たとする説もこれに該当する。

他にも、沖縄角力(シマ)からの発展説、本土から伝来していた柔術[22]が起源とする説などがある。
琉球王国時代
唐手佐久川の以前と以後「手 (沖縄武術)」も参照

琉球の歴史において、唐手(とうで、トゥーディー)の文字が初めて現れるのは唐手佐久川(とうでさくがわ)とあだ名された佐久川寛賀においてである。佐久川は20代の頃(19世紀初頭)、当時のへ留学し中国武術を学んできたとされ、この佐久川が琉球へ持ち帰った中国武術に、以前からあった沖縄固有の武術「手(ティー)」が融合してできたものが、今日の空手の源流である唐手であったと考えられている[23]

佐久川以降、「手」は唐手に吸収・同化されながら、徐々に衰退していったのであろう。一般に空手の歴史を語る際、この唐手と「手」の区別が曖昧である。それゆえ、狭義の意味での唐手の歴史は佐久川に始まるというが、厳密に言えば、佐久川はあくまで「トゥーディー」=中国武術の使い手であり、「日本の武技の手・空手」の起源を考えるならば、佐久川の弟子の松村宗棍以降になるともいわれる。「手」も含めた沖縄の格闘技全般という意味での空手の歴史は、もちろんそれ以前にさかのぼる。以下、広義の意味での空手の歴史について叙述する。
薩摩藩の琉球侵攻伝我謝盛保筆『我謝親方弓射図』(19世紀初期)。剣術、槍術、弓術は琉球貴族のたしなみであった。禁武政策と空手発展の因果関係は、近年、疑問視されることも多い。

琉球沖縄本島で空手が発展した理由として、従来言及されてきたのが、二度にわたって実施されたという禁武政策である。一度目は尚真王(在位1476年 - 1526年)の時代に実施されたというもので、このとき、国中の武器が集められて王府で厳重に管理されるようになった。二度目は1609年(慶長14年)の薩摩藩による琉球侵攻後に実施されたという禁武政策である。二度の禁武政策を通じて、武器を取り上げられた琉球士族が薩摩藩家臣に対抗するために、また、武器を持つことができなかった琉球王府の士族が主君を示現流という薩摩藩に伝わっていた古流剣術から守るために広がっていったものとする説が、従来、歴史的事実として言及されている。

例えば、松村宗棍尚育王の御側守役となったが、やがて那覇の薩摩藩在番奉行・町田平の知遇を得て、薩摩藩の御家流剣術・示現流の稽古に精を出すことになる。松村の門人・糸州安恒が、後年に唐手術の「形」に「段」の名称をつけたのは、師匠である松村の示唆に従ったもので、これは示現流の目録から援用したものである[24]
禁武政策の虚実

しかし、禁武政策と空手発展の因果関係については、近年、これを疑問視する研究者が少なくない。例えば、尚真王の禁武政策とされるものについては、従来「百浦添欄干之銘」(1509年)にある「もっぱら刀剣・弓矢を積み、もって護国の利器となす」という文言を、「武器をかき集めて倉庫に封印した」と解釈してきたが、近年では沖縄学の研究者から「刀や弓を集めて国の武器とした」と解釈するのが正しいとの指摘がなされている[25]

また、薩摩藩の実施した禁武政策(1613年の琉球王府宛通達)も、帯刀など武器の携帯を禁じただけで、その所持まで禁じたものではなく、比較的緩やかな規制であったことが判明している。この通達は「一、鉄砲の所持禁止。二、王子・三司官・士族の個人所有武器の保有は認める。三、武器類の修理は在番奉行所を通して薩摩にて行うこと。四、刀剣類は在番奉行所に届け出て認可を受ける事」という内容であり、武器の所持(鉄砲を除く)やその稽古まで禁じるものではなかった[26]。実際、薩摩への服属後も、琉球の剣術、槍術、弓術などの達人の名は何人も知られている。また、素手で鉄砲や刀などの武器に対抗するという発想そのものが非現実的であり、このような動機に基づいて琉球士族が空手の鍛錬に励んだとは考えられない、との指摘もある。それゆえ、禁武政策による空手発展説を「全く根拠のない巷間の浮説」(藤原稜三)と一刀両断する研究者もいる[27]
手(ティー)の時代

古くは16世紀、命を狙われた京阿波根実基(きょうあはごんじっき)が「空手」という武術を用いて暗殺者の両股を打ち砕いたとの記述が正史『球陽』(1745年頃)にあり、これは唐手以前の素手格闘術であったと考えられているが、これが現在の空手の源流武術であったのかは証明する史料に乏しく、その実態ははっきりしない。また、17世紀の武術家の名前が何人か伝えられているが、彼らがいかなる格闘技をしていたのか、その実態は明らかではない。明確に手(ティー)の使い手として多くの武人の名が挙がるのは、18世紀に入ってからである。西平親方、具志川親方、僧侶通信、渡嘉敷親雲上、蔡世昌真壁朝顕などの名が知られている。

また、土佐藩の儒学者・戸部良煕が、土佐に漂着した琉球士族より聴取して記した『大島筆記』(1762年)の中に、先年来琉した公相君が組合術という名の武術を披露したとの記述があることが知られている。この公相君とは、1756年に訪れた冊封使節の中の侍従武官だったのでないかと見られており、空手の起源をこの公相君の来琉に求める説もあるが、組合術とは空手のような打撃技ではなく、一種の柔術だったのではないかとの見解もあり[28]、推測の域を出ていない。

1784年に没した琉球士族の阿嘉直識の遺言書に「からむとう」なる武術の名前が記されている[22]が、これが空手の起源であるかどうかは未詳である。また同遺言書は柔術を指す「やはら」についても記されており、少なくとも「からむとう」と柔術は別の武術と認識されていたようである。
唐手(トゥーディー)の時代松村宗棍遺訓。武芸を三段階に分けて、型偏重(学士の武芸)を戒め、臨機応変の大切さを説き、武芸の目的はおのれのためではなく、国王や両親を守る(忠孝)ためにある(武道の武芸)と説く。

19世紀になると、唐手という名称が使われ出す。しかし、唐手と「手」の相違は判然としない。明治初頭の頃まで、唐手以前の「手」は特に沖縄手(おきなわて、ウチナーディー)と呼ばれ、唐手とは区別されていたとされるが[29]、両者の間にどのような相違があったのかは不明である。19世紀以降の唐手の使い手としては、首里では佐久川寛賀とその弟子の松村宗棍、盛島親方、油屋山城、泊では宇久嘉隆、照屋規箴、那覇では湖城以正、長浜筑登之親雲上などである。この中でも、特に松村宗棍は琉球王国時代の最も偉大な唐手家の一人と言われている。琉球国王の御側守役(侍従武官)の職にあり、国王の武術指南役もつとめたという。

また、この頃から薩摩を経由して伝来した日本武術も、唐手の発展に影響を及ぼしたとされる。最初は薩摩の在番役人から示現流剣術やその分派の剣術を修業する琉球士族の一部から伝わったものと思われるが、18世紀には薩摩藩士を介さず琉球士族から示現流剣術を学ぶ者もあった[22]


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